公開日 2026年08月31日
小沢一仙については、清水眞澄先生が「石田半兵衛一族」のなかで詳しく書かれたので、ここでは「琵琶湖運河計画」を中心に補足したい。
それにしても大正9年ごろ足立鍬太郎先生が、調査で目を通された資料が現存していたなら、確信をもって一仙の人間像に迫れるだろうと思うと、残念でならない。
彼は「万能の天才」と呼ぶにふさわしく、芸術家として彫刻、造園、実業家として建築、農地の開拓、産物の開発、輸送の便など掛川、対馬、仙台、金沢の各藩、田安家にも提言。軍略家であり、エンジニアとして軍器、造船、水車の発明、修理。政治家として「偽勅使事件」にみる政策、行動。面白いのは「製銀吹立仕法」にみる財政家でもある。
これらの彼の行動の特徴をみると、「富国強兵」をしたのちの攘夷論者である。理想の旗印だけでなく、民意を尊重し、戦火が庶民に及ばないことを願っている。
本業が宮大工であるので各地を歩き、神主、僧侶、土地の有力者、浪人、武士、大名、公家などと接触している。得た情報を土台に、発想の豊かさとなる。手先の器用さが即妙と云える判断となるのである。琵琶湖運河においても、総合的な彼の頭脳がのぞく計画となっている。
一仙は、天保元年(1830)に宮大工石田半兵衛の次男(長男説あり)として江奈で生まれた。本名を馬次郎、彫刻の号を信秀といった。家の傍に掛川藩の高札場があったことから屋号を「札場」と呼んだ。現在の下田屋商店の倉庫あたりという。
また、母をよねといい、札場とは道一つ隔てた家の出である。宮大工という仕事柄留守がちで、よねの兄である福本要蔵を頼ることが多かった。
その要蔵あて慶応3年(1867)10月10日付で、半兵衛・徳蔵(一仙の弟)合名の手紙が寄せられている。それ以前6月9日付で、北陸にいた一仙が、甲州(山梨県)の半兵衛、徳蔵にあてたものがある。これらを合わせて運河計画を追うことにする。
この計画のかかわりは慶応2年9月「江湖掘割「琵琶湖運河」建白書」が文献上最初である。これは幕府あてと思われる。幕府は呼応するように百万石の金沢藩(加賀)に一手切り(全面委任)の形で許可を与えた。
感の鋭い一仙なら金沢藩への働きかけは前記建白書提出前からしていたであろう。小沢会所の名で「加州様江湖掘割通舟路御普請起立より御用書並びに建白書」を慶応3年5月に発表する。これは次号で触れる再度の実地検分の後のことと思われる。
一仙は、慶応3年5月17日、敦賀唐人橋町の大黒屋に着いた。金沢藩は大乗り気で、19日から23日斡旋役井上忠左衛門という重役が実地検分に案内、25日にも一仙と役人4人で見残し個所を検分している。
それを終えて敦賀に戻った一仙は、設計書、見積書を一気に書き上げる。役人は金沢に二度も飛脚便を出している。「諸役にて急々御決評に相成り」というほどで、6月20日には藩役人200人余人もが現地に赴き、担当地域や役割を決めたいという異例の対応ぶりである。
一仙自身も運河の位置が決まれば、器械類の設計に着手したい。そのためには徳蔵と江奈にいる弟平太郎にも手伝ってもらわなければならない。江戸の鏑木氏、新助、弥兵衛、安五郎など5、6人をも呼び寄せる手筈になっている。今ここでの一仙家と申す者は7人連れとある。これらが小沢会所のブレーンであろうか。
概略このような書状を受けた半兵衛と徳蔵は、7月21日に身延を発った。敦賀に着くと一仙は不在であった。一仙を追って金沢に到着したのは8月9日のことである。
金沢城には一仙も同行したと思われるが、一仙が前田候に差し出した軍事、国益に関する書類、運河計画書、その器械類を10分の1にした模型、絵図面を半兵衛と徳蔵は見ている。当面の褒美として御紋付の反物2反と125両を拝領した。
その一方、運河に関係する敦賀港、塩津までの大半が金沢藩領ではなく、役人が土地の買収や代替地の交渉に苦慮している様が伺える。でも来春には着工の運びとなろう。いずれ後便にて知らせると書状は結んでいる。
ひとの才能は、時代、環境、事件などによって触発、開花する。嘉永6年(1853)の黒船到来は一仙を刺激し、その人物を育て上げていく。
慶応2年の江湖掘割建白書も、文久3年(1863)の長州藩の外国船砲撃、その報復、幕府の長州征伐など、一連の長州事件が起因となっている。建白書の要旨をみると、「中国、四国、九州、その他の諸候は自給自足の策をたてている。そのため江戸、京都、大阪の物資は払底し、物価の騰貴は著しい。それは松前、奥羽、北陸の産物を遠く馬関(下関)を経由しているからで、早くて2ヵ月、場合によっては100日から半年、時間と経費は言うに及ばず、輸送中の物資、人命の損失は多大なものだ。この際、敦賀港から湖畔の塩津までの四里半(約17キロメートル。古地図から推量らしく実測は役22キロメートル)を堀り割って船を通したい。そして南は瀬田川を伏見、「さらに淀川を大阪に連絡するなら6日から7日、長くても10日から15日間で済み、この窮状は大いに緩和されるであろう」というものである。
足立先生は極めて綿密な計画というが、肝心の金沢、敦賀、湖畔には噂すら残っていないという。だが、富山県に一仙手書きの絵図面があった。
何故新湊市に現存したのか、金沢藩のお抱え測量士石黒信基の所在地だったことによる。石黒家は信由を初代として算学、暦学、測量にすぐれ、越中の偉人と称えられる一族である。信基がこの計画のために測った湖面の標高は、86.9メートルで精度の高いものであった。一族の資料は高樹文庫に保管され、多くは国、県の重要文化財に指定されている。その中に一仙の図面はあった。
琵琶湖運河計画は、平安時代からあり、平清盛が重盛に命じたのが最初とされる。以後幾度もあったが、山中は陸路を行くものであった。
しかし、一仙の計画は湖面と水平なトンネルを掘り、敦賀側には複数の閘門を設ける画期的なものである。閘門とは二つの水門を一組とし、互いを開閉することで船を階段式に上下流にやるものである。パナマ運河もこの式で、同時代に発案されている。トンネル工法も向い掘り(双方向)で、幕末にこのような測量、土木技術があったことに海外では注目しているという。
トンネル間口5.4メートル、長さ3276メートルに及ぶ。今のJR北陸本線の深坂トンネルとほぼ同じである。閘門の間口30.4メートル、そこに5つの出入口があるので一つの幅は約3.5メートル、水の調整落差は3.5メートルであることから、どんな船が通行可能だったろうか。
この船がどんな形か、何をもって動力にしようとしたのか今のところ分からない。しかし、無難車船を通行させようと計画されていたのである。
安政4年(1857)掛川藩主太田資始(老中歴任)に、「無難車船建造建白書」によって、一仙は世に出るきっかけとした。文久2年江奈寄洲(一仙旅館付近)で造るが失敗、これを改良して琵琶湖運河に夢をつなげていたのであった。
湖畔の梅津で、慶応3年5月、一仙は無難車船を造ろうとしている。鉄造車輪、釘、金具など、敦賀の利根屋に発注剤、取りかかれば20日間で出来上がると書状に見える。
この計画には一仙ならではと思えることが随所にみられる。まず湖水を日本海に流すことである。大雨になっても湖水が溢れない工夫もされている。逆に海水が農地に被害を与えないようにしている。
工事人足には江戸の窮人雇用や町兵、農兵の非番を当てようとしたり、水路によって潰地になる補償、工事費に通行料や荷次所からの徴収するもので当てる配慮をしている。また、特別な銀貨を造ろうとするあたり、面目躍如の感がある。
一仙の見積もりによると、北方工事(敦賀~塩津)は177万1359両2分、総体(敦賀~大阪)では450万両としている。
瀬田川から大阪間は豪商鴻池家の資金を画策したともいう。1日1万人、3年間で完成させる大きな計画であった。
ところで、先月号のカットの水車に注目してみたい。閘門の下流に5戸の水車小屋が描かれている。1戸につき40本の杵があり、臼の容量は2斗(30キログラム)、1日20俵、合わせて100俵が搗ける大規模なものである。
話はさかのぼるが、慶応2年6月、一仙は師というべき甲州の武藤外記に「甲府を4月2日発、京都11日着、早速に発明器械の宣伝に回っている。東奉行所の管理する米搗場の水車24掛中13、4掛が使用不能になっていたのを全部修復した」と書状の中で述べている。
このように器械の発明、修理にすぐれた人物である。これを機に京都中の大評判となり、一仙の名は売れに売れた。
また、器械の売り込み、修理などで会津、水戸、掛川の各藩、一橋家の大物屋敷にたやすく出入りしている。米価の騰貴が著しく、大阪、兵庫あたりでは打ち壊しが頻発していること、長州再征伐の動きなども報告、諜報家の一面もうかがうことが出来る。これにより怪しまれたりしている。
運河の着想もこのようにして得たと思われる。即妙多才としか言いようがない。彼の性格なら、北陸の地にあっても風雲渦巻く京都の情勢を察知出来た筈である。平和時でなければ琵琶湖運河計画は着工出来ない。一仙はこの夢を一時的に放り、年貢半減令をかかげて高松隊を結成する。庶民に戦火が及ばぬように平和裡に解決したい一念からであった。
半兵衛の書状の日時と食い違うが、慶応3年9月28日計画書を完成、金沢より京都に向かった記録もある。(完)
町史編さん委員 松本晴雄
参考文献
町制施行100周年記念誌 郷土の先覚者たち(平成13年2月発行)