江戸城外廓御用石納めの事

公開日 2026年06月08日

 江戸城御用石納めの事について記述すると、徳川幕府中期以後末期に至る頃である。

 現に史実に残れる口伝及び古文書によれば江戸城吹上三角矢来外廓土台石のヒズミ生じたるにより、之が築き直しの為、諸石切り出し方を伊豆代官江川太郎左エ門に命ぜられ、その筋より筆者の祖 斉藤七右エ門に御用石の切り出し御用を仰せつけられたのであった。

 現存する文書によれば高橋文左エ門家と共同事業であった様であるが、その石山は雲見の木ヶ下であって、また之に使役した石工は雲見の多数の人であった。然して切り出された御用石の搬出が大変な事であったと思われる。

 この切り出し及び運搬の為に幕府より御本丸御用の紺地に白抜き染めの幟を交付されて居ったのであって、如何なる運搬船と雖、江戸に命を受くれば之に背くことは出来なかったのであって、この件に就ては割合、順調に進行したと思われる。然して盆、正月には、毎年雲見の石工の勘定の事が大変であったらしい。この帳面の多数は高橋亘氏住宅新築の時、襖製作等に必要との事で寄贈したので現在は帳簿類はないが、古文書は現存している。また当時の御用石納めの残石が筆者の家の庭前に一本現存している。猶この御用石に就ては御本丸より外、深川越中島御調練場の外廓直し御用石も併せて納入したのであった。

 その後木ヶ下の浜には当時石材を切り取った破片が大なる層をなして居ったが、昭和初期より中期にかけて山口の菊池興吉氏による京浜地区川崎市の埋立工事の用石として実に多量の搬出が行われて現在ではその昔の片鱗さえ見る事が出来ないのである。

 この事に関連して、未だセメントが世に出なかった時代は工事の基礎は大概石材を使用したので従って京浜地区にもその需要大であったので雲見の赤井の桜山を開発して、多量の石を切り出し、京浜地区に搬出して相応の収入を得たのであった。然るが故にその当時雲見の大部分の男子は石の切り出し工であったのである。

 

参考文献

郷土に生きる八十余年 斉藤伊勢右衛門(昭和50年7月)