岩地の一里塚の石地蔵

公開日 2026年05月22日

 

 

岩地の一里塚の石地蔵

岩地の一里塚の大きなムクノキの下に、延享二年(1745)の銘文のある石地蔵が祀られている。

言い伝えによれば、この地蔵は岩地の屋号「田中」斎藤家の二代目に長らく眼病を患っていた人がいた。この人は非常に信仰深い人で、「禅岩」という法名を授けられていた。禅岩は眼病平癒祈願のため、四国八十八カ所の巡拝をして、石地蔵の人々に拝んでもらう様にと一里塚地蔵を安置したといわれる。

その翌年、また四国巡礼をして帰ってきてから、一里塚の下の郷戸村の「大師さん」の横に大乗妙典六十六部の供養塔を建立した。宝暦六丙子年(1756)正月吉日 願主禅岩の銘がある。このことから考えると、前年一里塚に奉祀した地蔵の銘文、延享二年は像が完成した年と思われ、禅岩はこの銘入りの地蔵を求めてきたものであろう。

禅岩はその後も四国巡礼をして、今度は「お釈迦さん」の座像(木製)を求めて岩地まで背負ってきて、西光庵(現公民館)に旧西光庵の本尊さんと並んで祀られている。昔の人の信仰心の強さには敬嘆するばかりである。「田中」斎藤家では、今も「お釈迦さん」に供物をあげて祀っている。

地蔵を背負ってきた背負子が、昭和40年代まで、「田中」に保存されていたという。

 

 

岩地の一里塚のお地蔵さん

昔、岩地のある人が、伊勢参りに行った帰り道、ある所でにわか雨に降られたので、地蔵堂の軒先で雨宿りをしていると、中から地蔵さんが話をしている声が聞こえてきました。「生まれてきた子供は、七つのお祝いをしてやらないと、無事に育ちもしないが長生きもできない。この年の祝い事は欠かさずにしたいものだ」と言っていました。

その後、その人は旅を続けて家に帰り着くと、ちょうど妻がお産をして男の子を産んだばかりでした。やがて子供は三歳、五歳と過ぎ七歳になったので、その家では子供のために餅をついたり酒を用意したりして大勢の親類や近所の人を招いてお祝いの宴を開きました。その頃は海辺で釣りをしながら宴会をしたこともあるようです。

すると、その海辺に見知らぬ男の子が現れたので、「お前はどこの子だ」、「石部から来たのか」、「雲見の子か」と尋ねたが、ただ首を横に振るだけだったが、その子の言うには、「おれは、今日ここにいる七歳の男の子をもらいに来たのだが、急ぎの用事が出来たのでもらっていけなくなった」と言って、どんどん遠ざかって行きました。そこにいた人たちは皆驚いて、その男の子の行方を見守っていると、その男の子はカッパの姿に変わっていました。人たちが恐ろしさに震えている間に、カッパの姿は消えて、辺りはしんと静まり返っていました。

その後、又、子供を取りに来るかもしれないカッパから子供を守るために、地蔵を建て村人は拝んだと言うことです。

岩地の一里塚に、その地蔵さんが立っています。地蔵さんの大きさは高さ約94cm、横約61cm、顔は卵型で目は細く、鼻は丸く、口は横に一文字に結び、優しそうで厳しい顔つきで、手には杖を持ち、裸足で石の囲いの中に入っています。

「三浦風土誌」

 

参考文献

松崎町史資料編 第四集 民俗編(下巻)