諸石神社の力石

公開日 2026年05月21日

 

鳥居に向かって左側の一段下に1個、あがったところに3個ある。計4個は町内で最も多い。

農村部の青年は力仕事をすることが多く、体力作りに力石に取り組んだのであろうが、漁村の青年も鰹や鮪を釣り上げたり、氷の塊を持ち上げたりするための力と、それに伴う体力が必要であった。

漁船の乗組員になると、船中の生活は団体生活で、力仕事は若い衆に任せられていた。また冬期の休業中には江戸行きといって、昔の青年は東京新川の酒問屋や、鉄砲洲の木炭問屋に半期奉公に出かけた。そこでも酒樽や炭俵を扱うのに力が必要であり、若者たちは一人前以上の力と体力を目指して。互いに切磋琢磨し力石に挑戦したのであろう。このような土地柄であったため、力石が多いのではないかと思う。

明治の頃、斎藤幸吉(屋号「新造屋」)が、大正の頃、斎藤金作(屋号「せいえも」)が、昭和になって金作の次男、鰹船大日丸乗り組みの斎藤 勇が、それぞれ若い盛りの頃、力石全部を次々に担ぎ上げ、参加者や観衆を驚嘆させたという。父子で担ぎあげたのは金作と勇だけだった。

 

諸石神社の力石

① 79×32×28cm

② 68×32×30cm

③ 68×27×27cm

④ 51×36×21cm

 

・力競べの賞品乳牛一頭

金作には他のエピソードがあり、鰹船辨天丸の乗組員で若かった頃(大正中期)、船が八丈島に風待ちしたとき島で催し事があって、島民が力競べをしているところに飛び入りして優勝した。優勝の賞品は乳牛一頭であったが牛をもらっても仕方がないので、かわりに牛乳と芋焼酎をもらったという。

 

・力持ちが伝馬船を担いだ話

昭和10年頃、岩地の鰹船八幡丸が八丈島大賀群に風待ちした折、乗組員の若い衆4、5名が伝馬船で島見物に出かけた。見物しているうちに風向きが変わったため、八幡丸は島の反対側の三根へ風待ちのため回航された。取り残された若い衆は、大賀郷から海路三根へ行くには島を半周しなければならないし、風浪や潮流を考えると伝馬船では到底不可能なので、陸路約5kmを7、80貫(約260から300kg)の伝馬船を担ぎ通して、三根で皆と合流することができたという。これもひとえに諸石神社の力石で鍛錬したおかがであろう。

 

 

参考文献

松崎町史資料編 第四集 民俗編(下巻)