家康の船手 渡辺織部

公開日 2022年02月22日

家康の身近に仕え船手となる

 渡辺織部(おりべ)は宮内村に生まれ新島に屋敷を構えていたが、浜松城に於て家康に御目見えし、天正年間(1573~1592)に御小姓格で召出され御蔵米二百俵を下し置かれた。

 更に御船手(幕府兵船の水軍)を仰せ付けられ側近を勤め、家康が浜松、駿府に出た時は夜詰を勤めている。

 渡辺家先祖書に「権現様(家康)の御代天文の頃伊豆国賀茂郡宮内村先祖の旧領故宮内に罷在(まかりあり)所々御陣立の節度々(たびたび)忠節申上候」とあり、先祖からの旧領地宮内村に居て家康出陣の時は度々参戦して忠節を尽くした。

 

小牧、長久手戦に参加

 天正18年(1590)家康が秀吉と争い小牧、長久手の戦いが展開されると、織部や悴の喜兵衛武と共に船一艘ずつを出し、伊勢国久津名に出陣し御奉公した。

 天正18年小田原城落城後、家康が関東に入国すると浅野弾正に伊豆の国改めを仰せ付けられたが、この時織部父子も共に島々まで見分を済ませ、家康は無事に伊豆国を手に入れた。

 のち家康は織部、喜兵衛父子を宮内に遣わし関船(高速兵船)自在丸、難破丸を預けた。先祖書に「御船蔵屋敷跡宮内村の新島と申所在之」とある。

 

褒美に新島(しんしま)支配を許される

 文禄元年(1592)秀吉の朝鮮征伐に当たって家康が出陣すると、織部父子は兵船一艘づつを持ち出陣を仰せ付けられ、肥前国名護屋(九州東松浦半島)まで新島の()()(水夫)を召連れ出陣し褒美として新島支配を許された。

 

宇喜多秀家を八丈島に護送

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに家康が出陣すると船一艘を持ち従軍したが、宮内金指家過去帳に「権現様(家康)関ヶ原出陣ノ節相模国中原ニテ渡辺織部殿祈禱ノ御礼差上申候ニ付二十石ノ御朱印頂戴仕候」とある。

 この関ヶ原戦で西軍の敗将宇喜多秀家が捕えられ八丈島に流罪に当たり、織部父子は秀家父子主従13人の一行を江尻から下田を経て護送している。

 渡辺家所蔵の海路図の中に「下田ヨリ八丈マデ百里」また黒潮図のところに「早キコト富士川ノゴトシ、コノトコロ二十町」と説明書きが入れてあり秀家護送のとき使ったものか。

 また先祖書に「秀家の和漢朗詠集一冊所持」とあるも現存していない。織部はその後宮内村に戻ったが、慶長15年(1610)76歳で病没した。織部の妻は野田の渡辺加賀(大野田)の娘であった。

 織部の妻の父渡辺加賀(大野田家)は織部家覚書に、北条早雲に随身せず田方にて討死したとあり、早雲狩野城攻略の時か。

 

織部桜田郡定寺本尊再彫刻

 寺の大日如来略縁起によると、天正18年秀吉軍の兵火で全焼したあと、織部は仏師に本尊大日如来像を再彫刻させ安置している。

 

織部の長男喜兵衛武ほか

 喜兵衛も船手で大阪冬の陣に五十挺立て関船で参戦し、夏の陣では敵船を乗取る武功をあげた。

 織部の次男半右衛門は水戸中納言頼房卿に千石で仕え、三男は頼房の嫡子讃岐守に千石で奉公している。

 

渡辺家と菩提寺春城院

 四代渡辺五郎七の残した書付によると、菩提寺春城院は船田に建てたが同村帰一寺と出入りあり、公儀の仰せで先祖より拝領の宮内村に移した。渡辺家は代々続いてきたが春城院に墓が立ち並んでいる。

 渡辺家は新島一帯を館とし那賀川沿いに屋敷があった。しかし、元禄10年(1697)幕府の地方直しで旗本大久保家の支配地となり没収された。渡辺家所蔵文書中に安宅丸図面があり、長さ二十五間、巾十七尺、新島に於て新造仕立て差上候と目録にある。(後継者東京住)

 

参考文献

  • 町制施行100周年記念誌 郷土の先覚者たち(平成13年2月 松崎町発行)

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