松本仙蔵

公開日 2021年11月25日

(1854~1923)

県議・村長歴任、行政にも尽力

 

仙蔵は、安政元年(1854)、石部村に生まれる。どんな経緯から教育の道に入ったかも判らないが、明治7年(1874)から4年間、学校の職員を務める。この学校は明治6年11月に公立石部学校として創立されたが、薬師堂を仮校舎としての出発であった。

明治8年になると就学児童増加により早くも手狭となり、彼は自邸を仮教場として提供する。やがてこれも狭隘となり、新たな公社建設に迫られた。これを村人に図っても機運が盛り上がらず、進んで私財を投じて一棟増築する。

仙蔵は次のように県会議員、岩科村長など、各種の公職を歴任、地域の行政に尽力した。

 

明治17年   伊豆国4郡町村連合会議員

明治21年1月 静岡県議会議員

明治22年3月 岩科村会議員

明治24年   静岡県漁業組合取締議員

明治25年9月 岩科村長(3代目)

明治26年   賀茂・那賀2郡町村組合管理者

明治30年   三浦同愛倶楽部初代会長

 

同時期、松崎町妙地に町内初となる火薬店を開業。

 

なお、養子となる文作は、東京帝大医学部卒の医師で、元食堂伯水跡地に西洋館の病院を開業、のち沼津市で開院する。

 

貨物船ウィック号事件

明治40年(1907)初夏、ドイツの貨物船ウィック号が岩地沖で火災をおこして漂流する事故があった。漁民の献身によって全乗組員を救出、船体も曳航して松崎港に投錨、その船内に住民が忍び込んで洋酒、ハムなど盗み出した事件である。これが警察の知るところとなり、2・3人が検挙される。

これを元県会議員の仙蔵は、署長に口を利き無罪放免する。世間知らずの住民の出来心を刑事化せず、反省、悔い改めさせたのである。同船はその夜爆発炎上、沈没する。

なお、石部禅宗院境内に仙蔵顕彰碑がある。幅1m38cm、高さ2m29cmの石に「昭和九年四月石部村民建立、松本仙蔵遺徳碑」とあり、揮毫は小泉三申。裏面には「碑石寄付者 岩地八幡丸船長斎藤伊助・外水夫一同」とある。その伊助とは元町長齋藤文彦氏の祖父で、たまたま宮城県桃の浦に寄港したとき、当地が銘石産地であることから購入して八幡丸で運び、石部区に寄贈されたものである。

 

仙蔵は、大正12年(1923)没、享年70歳。