近藤平八郎

公開日 2021年11月25日

平八郎は、安政4年岩地の高橋家に生まれ、幼い頃松崎村中宿の江戸元禄期から続く薬舗「大阪屋」(近藤家)の八代当主になるべく養子として入籍した。大阪屋には平八郎と夫婦となる養女(れん)がいて、兄弟のように育てられ、成人して夫婦になった。

平八郎は三余塾に入門し、土屋三余の薫陶を受け、その後東京帝国大学医学部別科に入学し薬学を学んだ。東京府の衛生課に就職したが間もなく退職、帰郷した。帰郷後全国で7番目の薬剤師の本免許を取得した。明治15年には、東京の薬剤師と組んで薬剤師が調剤できる「調剤薬舗設立案」を内務省に提出し、医薬分業の嚆矢を演じた。

大阪屋には、当時の薬の処方箋が現存する。それには「省令・・号ニ依リ届出ヲナシタル製剤」と記されており「日本薬局法」で認められた薬を調合販売していたころがわかる。胃腸薬、解熱剤、リュウマチ薬、消毒液、薬用の飴、花火まで多様な薬品名が見える。劇薬をも扱っているので専門知識を有していたのだろう。当時、大阪屋は有名で近郊の人々も来店し、県外からの調剤薬の注文もあった。

平八郎は三余塾で受けた教育の教えの影響で、子供たちの躾は厳しくも教育には熱心で、子供が小学生の頃から松崎学校の校長に個別指導を依頼、特に長男は校長住宅に泊まり込んで勉学に励んだ。

4人の息子を帝国大学に入学させ、十分すぎるほどの学資を送金した。特に東京帝国大学に入学した2人の息子には、学校付近に家を新築、女中をつけて息子達の世話をさせた。長男の平三郎が東大の優等生で恩賜の銀時計を拝領したことを祝って、自宅に近隣の名士を招いて祝賀会を催すほどだった。

その後、その平三郎を薬学研究のためドイツに留学させた。当時3年間の留学経費は如何ほどだったのであろうか。親としては質素な暮らしをしながらも、子供への教育費は惜しみなく出費していた。子供達には「勉強しらっしゃい」が家訓のようになっていたという。

平三郎は後に東京大学名誉教授、日本薬学会会頭、日本学士院会員などを歴任。昭和33年文化勲章を受章している。

平八郎は、家業に励み多大な財を得て、明治20年、薬蔵、米蔵、砂糖蔵と主屋の広いなまこ壁造りの家を新築、名実共に充実した人生を送った。

村会議員に選出され、地域発展のために活動する。依田善吾と協力して松崎汽船会社を設立、東京まで汽船を運航させたり、松崎銀行の重役に就任、松崎学校の学務委員として児童就学を促進した。また、松崎、南伊豆間の往還開通の委員代表として尽力した。北海道開発事業の晩成社株主、地域の発展振興を目的とした「豆南社」の創始メンバーの一人として、教育、交通、土木等の発展を話し合い企画した。

明治26年には伊豆に鉄道布設請願運動を起こした。同会では、時間励行案を起草し各町村に配布、実行を促す活動もした。

平八郎は、松崎区長の時、父親と共に那賀川土手の整備に着手、堤防工事には自ら陣頭指揮したこともあったといわれる。

明治28年当時、村長福本七五三と協議して向浜の道路改修に着手、その後、向浜、新浜に新しい家々が建設され、松崎の中心地になっていく。工事で腐心したのは、那賀川に架ける常盤大橋だったという。当時の松崎村は財政力も小さく架橋費が支出できず、松崎区の住民の拠出によって完成されなければならず、そうしたことも区長の仕事だった。洪水によって流出、再建も容易でなく、町裕の橋にするよう陳情を繰り返している。

平八郎は神仏にも帰依し、寺、神社の総代表も務め、寺院にも多額の寄付を納めている。神社の境内の石欄干にその名が残る。

年老いて死の床についた際、息子の嫁の掌に「あと五十分」と書き合掌し、その通りに息を引き取って、その生涯を終えた。

辞世「うつし世の 謹をもへて今よりは 去りにし 父母のもとに 行くなり」

享年87歳。