岩地峠に立つ(高橋 亘)

公開日 2021年03月03日

 亘少年の生い立ち

 「みいーんみいーん」と、あっちこっちの木々の中から、蝉の声が湧き出るようにひびいてくる。

 「暑いなあ。」

 亘少年は、家をとび出した。ひざまでのさらしの着物で、前ははだけていた。陽にやけた精悍な顔に、目がきらりと光っていた。

 岩地―済みきった青い海。引っこんだ入江の奥に白い砂浜、時折り小さな波音をたてて、海が動いていた。誰れひとりいない浜辺では、尾の長い浜千鳥だけがえさを求めて、とびはねていた。薄桃色をした桜貝が、浜のいたるところに見えていた。

 その海岸沿いの傾斜地に約50軒の家々が、肩を寄せあうように建っている。砂浜からすぐの家々には、頑丈な石垣が数メートルの高さで垂直に築かれ、岩地に住む厳しさを物語っているようだった。浜からは、どの道を坂になっており、平らの道は一本もなかった。

暑さに、どの家々も障子ははずされ、表から裏の石垣が見通せた。きれいにそうじされた部屋の中には動くものもなく、海からの風が気ままに通りぬけていた。

 家をぬけて山にかかると、「耕して、天に至る」と中国の詩人が読んだようにちょうど空に向う階段のように、段々畑が続いている。ゆるやかな斜面ではないだけに、ある幅の畑を得るには、それに近い石垣を積上げる必要があった。木を切り、草を刈り、切り株を掘りおこし、土と石とを選りわける。その大小の石で作った石垣だった。人のこぶしほどの石をも利用して、ほぼ垂直に積む。石垣の石は、三点で接していれば崩れないことも、古い人から伝わっていた。畑のわきに細い水路をもうけて畑を守った。それでも、石垣の丈夫さ以上の大雨はある。雨のやむのを待って、石を積み直す。崩れた土を最後は手の平ですくって畑にもどす。その苛酷なほどの自然が、どんなものにもくじけない気持を人々に教えてきた。だから、畑からとれる作物は生きる糧だけではなかった。のちに岩地に生きる人々は、常に畑を耕し、石垣に草一本生やさない勤勉さが、道徳として身についていった。そんな岩地に、亘少年は明治19年に生まれた。

 生まれた家の屋号は村津屋。幕末の弘化年間、郷同の大屋より分家した。大屋とは狭い道をへだてた、後ろに段々畑を背負ったそう大きくない家であった。

 亘少年は、5人兄弟の三男。父親が病弱であったことが悲しいことだった。

「畑へ草刈りに行くよ。」

と母親の言葉に亘少年はふりむいた。朝早くから、家族が寝静まるまで、母はじっと坐ることがないほど働き続けていた。その母にまつわりつくように、亘少年と妹がいた。畑の作業に、磯での貝取りに、ついていくのが当り前になっていた。いつの間にか、草むしりや貝取りのまねをするようになっていたが、ただやたらにあきっぽいだけだった。

 母は肥をくみ終えると、

「さあ。」

と下の妹をながすように腰をかがめた。肩にした天秤棒の前にもっこがあり、それに妹がちょこんと坐った。後ろは肥桶けがさげてあった。腰を落して、狭い山道を一歩一歩進む母の先頭に、亘少年はちょこまか歩いては時々ふり返える。少し離れた母の顔を見て、ニヤッとするのだが、汗にまみれた母の顔は動かしようがなかった。小さな石に乗ったはずみに、亘少年の下駄の鼻緒が切れた。この下駄も自家製で、厚手の板切れに三つ穴をあけて、これも自家製に鼻緒がすげてある。小さな石を拾って、鼻緒と一緒に下駄の穴に石でおしこんでしまうのだが、かちはだしの方がめんどうくさくないほど、よく切れた。鼻緒をすげる母の手つきをのぞきこんでは、もう自分でやれる気になっていた。

 ひとっきら働いたあと、母親が竹皮の包みを開いた。そこには、もろこしまじりのむすびが三つ出てきた。右手にむすびを、左手に梅干しをつまんで、むすびをほおばる。なま暖くなったむすびに塩がきいていた。

「うまいら。」

と母が亘少年の目を見てたずねる。

「うん。」

と亘少年はこっくりする。母の太い指の中で握られるむすびは、そのものの味よその母の姿でわかっていた。

「うまいなぁ。」

と竹ずつの水筒から口を離して言う母の言葉が、一つ一つ亘少年の幼心にしみ通っていった。

「働けば、どんな飯でもおいしい」とは、働き続けた母親の嘘のない言葉だった。その言葉の通り、亘少年にも当然のようにいろんな仕事が言いつけられてきた。小学校入学前から、風呂の火もし位ならまかせられてやれるようになっていた。

 明治25年、約1キロの道のりのある三浦小学校へ通った。家で学校のようすをあれこれ聞きながらも母は「我慢してこらえんけりゃならない。我慢できる人が強いんだ。」という言葉をよく口から出した。小がらでけんかも強くない亘少年も、強い子どもにいじめられた時も、どうすればいいか少しずつわかっていった。

「りっぱな人間になるんだ」これが母親の願いだった。病弱な夫と小さな五人の子どもを支えている母の自信でもあった。また、「貧乏でも、卑屈になるな」と、母は自分自身にも言い聞かせるように、子どもにも説いた。「りっぱな―」ということは、しっかりした人間、世に役立つ人間ということであった。それはまさに母親として、働くことで身につけた言葉であって、どうしても、子どもに伝えなければならぬものであった。

 だから、小学校3・4年になると、母は亘少年に本を読むことを勧めた。向いの大屋から本をかりたりつきあいの中でも亘少年に本が見せれるよう心がけていた。また、本の内容はともかく、本を読むことがうんとだいじなこととされていた時代でもあった。亘少年自身、幼い時から母についての生活が多かったせいもあって、同じ年頃の子どもとなじめない面も持ち合わせていたので、本の世界へ入っていくのも早かった。母も、亘少年の真剣な読書には、用事を言いつけることを遠慮するようにもなっていた。三浦小学校4年を終えると

「亘は松崎の学校へ通ったらいい―。」

と母はなかば決めたような口ぶりで、亘少年に伝えた。

「うん。…。」

と亘少年は、おぼろげながらしかわからない学校に通うことを決めかねていた。

「どんなに貧乏でも、心はりっぱになれるんだ」との母の話に、亘少年は母親の強い熱意を感じていった。

 松崎高等小学校は4年間の修業で、農業実習が多くの時間であったが、教科書があり、それにそった授業が行われていた。生徒は石盤と呼ばれる木のふちのついた原稿用紙大の黒板に、白いやわらかの石で、文字や数字を書いて勉強していた。亘少年は、松崎高等小学校に入学が決まり、その入学式は、明治30年、桜の花にはまだ少し早い頃の4月であった。家を出ると、すぐ山にさしかかる。段々畑の間をぬうようにして山路が続く。15分も登ると、小さなお地蔵さんのまつってある岩地峠に出る。峠に出ると風景が一変する。眼下に、岩科川と那賀川の合流する扇状地に、大小の家が集まっていた。そこには、岩地にはない平らな土地があった。その松崎にいっきにかけおりるように道が下っていく。山道をくだり終えると道部に出る。そこから、いっときの道のりで学校に着いた。

 この道を4年間、春は新緑の中うぐいすの声を聞き、夏は草いきれの中を汗まみれ、落葉樹が冬の眠りに入る頃、岩地峠でリスを見、西風に息をつまらせながら家に着いた。この毎日の道のりを、雨の日も、風の日も、休まないことが、母の言う「我慢してこらえんけりゃならない。我慢できる人が強いんだ」という教えだったのであろうか。亘少年は、母の教えがわかっていく人になっていくようだった。

 松崎高等小学校で学んだことで、亘少年の読書欲は、ますます豊かなものになっていった。漢詩を読めるようになる。文章の中にでてくる外国の言葉も憶える。数の計算ができるようになる。それら一つ一つが亘少年にとっては楽しいことであった。

 松崎高等小学校の卒業式を終えて帰り、亘少年は岩地峠で、今登ってきた風景を思わずふり返った。今までの三浦小学校、松崎高等小学校での生活。峠でのけしきが変わるように、これからの生活も変わる。これから自分にはどんなことが起るのであろう。それに対しての期待と不安…。今まで何百回となく見てきた風景も、これからのことを思うとなつかしく思えていた。顔を前に向けると、遠くに海が見えた。これから住む岩地の海だ。一つの風景の終りであった。

 亘少年、15の春。岩地の少年の多くがそうであるように、漁船の乗組員になっていった。卒業後何日もたたずに、弁天丸の乗組員として初航海に出た。

 当時の鰹船は、型巾が9尺(約2.7メートル)から一丈(3.3メートル)で長さも45尺(約13メートル)から50尺(約15メートル)で、乗組員が20人から25人ぐらいだった。太い帆をはるか8、9丁の「ろ」で走ったもので、江戸時代の船とほとんど変化のないものであった。池海と呼ばれる漁場は、子浦沖、三つ石、鰹島などで、朝出航して漁を終えて、薄暗くなって岩地へ帰ってこれた。また、外海と呼ばれる漁場では、一航海10日もかかって漁をしていた。鰹の漁期には、帰港してもまた次の日には出港していった。こうした骨の折れる仕事の中にも、亘少年は暇を見つけては読書を欠かさなかった。岩地の「ぼんでんさん」の祭りで漁も終わる。海が荒れ、鰹も黒潮の南下とともに日本から離れてしまう。また来年の春まで、漁師たちは海から離れて生活しなければならなかった。特に、若い人達は家から離されて、東京へ季節労務者として、炭屋や酒屋に奉公に出された。

 亘少年は、船をおりると何とか勉強をしたいと考えるようになっていた。人をたよって、岩科の常在寺の蟠竜和尚に教えを申出て引受けてもらった。母の心づくしの弁当を持って常在寺に通った。和尚に日本史や論語を学びながら、亘少年の心は岩地だけにはとどまらない広いものになっていった。亘少年の向学心と母の支援に、和尚の講議も熱が入っていった。

 正月を過ぎると、亘少年の家を思う気持から、東京へ出稼ぎにいった。からだが小がらな亘少年の勤め先は炭屋であった。

 こうした生活を5年間くり返した明治39年12月、亘少年は静岡歩兵連隊に入隊した。2年間の兵役は男子に課せられた義務であったから当然なことであった。当時は日露戦争の直後で、政府は強力な軍事力の確立を急いでいた。だから軍規はいちだんと厳しく、日夜、はげしい訓練にあけくれていた。その中で、亘少年の唯一の楽しみは読書であった。論語・英語・数学・理科類の本を次々に読んだ。戦争の訓練の中、読書をしている時だけが、考え、理解し、自分をとりもどすだいじな時間だった。休憩時間、兵舎のはめに寄りかかっていると、たちまち本は空に飛んで、落ちてくると軍靴に踏みつぶされた。顔を上げると、そこには恐しい顔をした上官がいた。本を読むことは、軍人らしくないのか、いやというほどなぐられた。

 2年間の兵役を終えて除隊。再び弁天丸の乗組員として漁に出たが、人からの教えや多くの本から身につけた学問は、亘を岩地の漁師としてとどまらせなかった。

 ちょうど亘少年が、青年やがておとなへと成長していくのと時を合わせるようにして、日本の水産業も青年から成人へと速いテンポで発達していくのだった。明治39年には、静岡県の水産試験場の富士丸は初めて石油発動機を装備して走った。

東京と横浜には、大きな船が建造できるドックができ、1万トンもの船の建造が始められた。漁業もトロール漁業の制限法が制定されるほどさかんになっていた。エンジンで走る漁船は、漁師にも新しい時代が来たことをつげていた。そして、現に船長・機関士・航海士も試験によって、その資格が認められるようになり、ただ経験年数がものをいう時代ではなくなった。

「よそへ行って、新しい漁業を勉強したい」亘の気持は、まだ見ぬ大型漁船へと傾いていった。その気持を確実にしたのが、礼奉公としての乗組みが終えた明治43年、亘が22才の時だった。

 日高漁業に就職できることがわかった時、亘は岩地を離れることを決めた。

「勉強して、りっぱな漁師になりたい…。」

家のことを思えば、言い出しにくいことではあったが、自分の心の中に燃える火は消しようがなかった。亘の決意を聞いた時、母はだまってうなずいただけだった。亘が幼い時からの母の願いだった「りっぱな人間になるのだ」ということが、親と子が離れるという形で実現できることに、母は複雑な気持だった。

 出立の朝早く、家族が岩地峠まで見送ってくれた。よく手入れのされた山道をみんな無言で歩いた。それぞれの心に想いを秘めて、息だけが聞こえあっていた。

 小さなお地蔵さんのある岩地峠で風景が変わった。数年前、毎日見なれた松崎の風景だった。学校を卒業して、岩地の人として生きると決めた時に、ふりむいて見た松崎の風景であった。そう思った時、亘は登ってきた岩地をふり返らずにはいられなかった。そこには、岩地は見えず、段々畑が見えるだけであった。

「じゃあ…。」

亘は家族の方をふりむいたまま歩き出した。家族の手がゆれている岩地峠の風景であった。

 

高橋 亘 略歴

 

明治19年  岩地に誕生

明治39年  静岡三十四連隊入隊

大正 3年    漁船甲種二等運転士試験合格

大正 9年  髙橋漁業設立 定置網漁業経営

昭和11年  丸高林業部設立

昭和17年  柑橘試作後栽培推奨

昭和19年  農林顕功賞受賞

同     丸高報徳会設立

昭和21年  市場水産株式会社設立

昭和23年  丸高水産株式会社設立

同     東京都鰹鮪漁業有協会長

昭和26年  紺綬褒章受賞

昭和30年  日本鰹鮪漁業信用基金協会設立

昭和34年  丸高石油有限会社設立

同     静岡県産業功労賞受賞

昭和38年  林業功労賞受賞

昭和41年  勲五等双光旭日章受賞

昭和45年  逝去

 

参考文献

ロマンに生きたふるさとの少年たち (昭和58年4月 松崎町教育委員会発行)