岩科山 天然寺

公開日 2021年02月26日

所在

松崎町岩科北側507

宗派

浄土宗

創建

応仁2年(1468年)

本尊

阿弥陀如来立像

安置仏像

観世音菩薩立像 勢至菩薩立像 賓頭盧尊者坐像 地蔵菩薩半跏趺坐像 地蔵菩薩立像 閻魔大王坐像 地蔵菩薩坐像 観世音菩薩立像 鳥枢沙摩明王 釈迦如来像 不動明王立像

 沿革

 創建は応仁2年(文明9年の説もある)10月。山号は江戸時代末期までは稲荷山の明治以降は岩科山を使用している。稲荷山は寺の守護神として、境内裏山に稲荷大明神を祀るところからの山号であろう。

 開山は雲誉(浄泉寺二世)、掛川誌稿によれば開基は渡辺加賀といわれ、元は渡辺家の菩提を弔う私庵であったというが定かでない。また、寺はその昔伏倉にあったが洪水で流された為、野田に移したという伝承もある。本尊阿弥陀如来立像は行基の作と伝えられる。

 徳川家康入国の際、差し置き料として一三石八斗九升を賑わったという。そして八世嘆誉の代慶安元年(1648年)8月17日3代将軍家光より、その朱印状を受けて代々拝受してきたが、明治維新の折り新政府に返納された。

 

 朱印状写

  伊豆国加茂郡岩科村天然寺領同所之内

  拾三石八斗餘事任先規寄附之 訖

  全可収納并寺中竹木諸役等免除如

  在来永不可有相違もの也

     慶安元年八月十七日

       朱印

 

 九世勝誉の延宝4年(1676年)8月、大洪水で堂宇の総てを流失したという。現在の位置での流失は考えられず、当時は現在より前の低い位置に小さな堂宇があったのであろう。門前は岩科川の河川敷で洪水がくりかえされ、明治の終わり頃まで、大きな池も残され、地名も平田河原と呼ばれた所である。

 現在の敷地は、野田洞の作る小さな扇状地を片側にして、その上に、山を削り盛り土をして造成したもので、当時の広さは現在の重要文化財岩科学校の敷地までを含めた広さであった。

 その広い敷地に、一一世喜誉は堂宇の再建をなした。現在寺に伝えられる棟札の写しは、寮舎(子院)天養院・定光院建立の棟札ではなかろうか。とすると寮舎は元禄9年(1696年)の建立となる。

 

本堂、庫裏、山門、鐘楼は宝永6年(1709年)に斧立(建築準備)翌7年8月完成したもので、本堂の大きさは、間口9間奥行き7間総坪数60余坪の大きな伽藍を建立したものである。

鐘楼の梵鐘は、一〇世讃誉の代に鋳たものであったが、太平洋戦争で供出された。現在の鐘は、二四世心誉(平成2年示寂)が願主、施主は野田出身の菊地良市氏で、昭和39年(1964年)に再鋳された新しい鐘である。また、現在の庫裏も昭和32年(1957年)に建てかえた新しい庫裏で当時のものではない。

岩科の浄土宗の寺院として栄えた寺は、寺内子院の天養院、定光院の外に末寺・支配堂も多く、松尾の薬師堂(東福寺)不動堂(泉竜寺)野田の野田堂(易行院と思われる)金沢の観音堂、道部笈ヶ浜の千体堂(浄心寺)などがあった。しかし、明治6年(1873年)すべてが廃堂となって、今は不動堂以外その跡を残すのみである。

門前、昔の平田河原に立つ大きな地蔵尊、台座に

 宝暦七丁丑天(七年)易行院願主道意

とある。

 易行院は、四世然誉開山の末寺(堂)、その住職か堂宇の道意が願主となって浄財を集め建立したものであろう。建立より230年余り、道行く童にも村人にも観しまれ、また、仏を送る行列を迎え、先祖の供養に訪れる人々を見詰めてきた。

 明治5年(1872年)学制発布により、翌6年一七四番小学岩科学舎が開設されたとき、境内にあった天養院、定光院が仮の校舎や教員住宅となった。当時、定光院の庭にあった見事な杖振りの古松が戦後まで重要文化財岩科学校前に残され、土盛りされたその松を背にして金毘羅神社(護黌神社)が建っていた。

 

年中行事

四月八日 花祭り

八月一六日 施餓鬼会 旧岩科地区五か寺で持ち回り

境内堂宇

本堂 庫裏 鐘楼 山門 土蔵 稲荷神社

 歴代住職

 開山雲誉和尚 二世浄誉和尚 三世鑁誉和尚

 四世然誉和尚 五世源誉和尚 六世勝誉和尚

 七世誓誉和尚 八世嘆誉和尚 九世勝誉和尚

 一〇世讃誉和尚 一一世喜誉和尚 一二世静誉和尚

 一三世慎誉和尚 一四世冠誉和尚 一五世最誉和尚

 一六世覚誉和尚 一七世海誉和尚 一八世面誉和尚

 一九世瑞誉和尚 二〇世交誉和尚 二一世願誉和尚

 二二世西誉和尚 二三世浄誉和尚 二四世心誉和尚

 二五世信誉和尚 (現住)

 

寺宝

地蔵菩薩立像

付記

一 境内本堂脇に、目通り2.9メートルのイスノ木の大木がある。葉がアブラ虫などの寄生虫により大きな玉となる。秋成虫の出た小さな穴に口をあてて吹くとヒューヒューとなる。通称「ヒョンの木」と言ったものである。

二 本堂廊下の欄間に、明治25年(1892年)2月の俳句の扁額がある。中村の俳人保赤(渡辺源八)の追悼句会に、その門下の詠んだものである。

 参考文献

松崎町史資料編 第1集 神社・寺院編