公開日 2021年02月25日
昔、新左衛門というハンサムな若者が石部の竹の沢のどんぶら淵のほとりで木樵(きこり)を渡世としていた。ふとしたはずみに鉈(なた)をこの淵に落とした。さあ困ったと夢中で探したが一向に見当たらない。思案に暮れていると、どんぶら淵の水面がいつもより美しい。しかし毎日使うあの鉈がなくてはと深い思いにふけっていると、にわかに辺りに、ふくいくたる香りが漂って、水の中まですばらしくきれいになって、春の花びらがちらりほらりと咲き始めたかと思うと、その淵の中で一人の美しい姫がトンカラリー、トンカラリーとあざやかな手つきで「はた」を織っておるではないか。
みれば年の頃二八の頃か。芳紀正に16才位、ふくよかに匂う真白い人肌を色目美しい柄模様に包んで織りなす手振りは天人の天振りませしか、きめ細やかな雪のみ肌に緑丈なす黒髪は軽く乙女の背なにゆらいでいる。
こんなに美しい乙女が、世にもあるものだろうか。桃や李の粧とは正にこの事かと木樵の新左はしばし恍惚として、夢心地ではた織る乙女に見とれていると、彼の美しい姫はにわかに織りなす手振りをハタとやめて、
「やよ若者よ、わらわがここで、はたを織りなすことを他に言うことなかれ。わらわは汝より外には、この姿を見せまじきものよ。まことは、わらわは、水姫の神で、水がひれば水を与え、水が多ければ之を止め、お湯がほしければお湯を与える、水の精が宿る水の姫神におわしますぞよ」
と糸のまいたつむをくれた。「この糸は使っても使っても糸はなくなりません」と言って渡してくれた。
若者は余にも美しいはた織る姫のささやきが、耳の底眼の底にこびりついていつまでも消えない。
家へ帰っても義理がたい正直者の新左は誰にも他言しなかったが、一寸したはずみに口をすべらしてこの事を話したら、忽ち評判となって巷の若者達が一度見ようと、どんぶら淵へ行ったが、わいわいとわめく若者の前へは、この美しい乙女はその姿を遂に現さなかった。
しかし、日照りが続いて水不足の時は、ここで雨乞いをすると水姫が新左に告げた如く、姫が雨を呼んで大地は雨に潤うといわれて、この淵はその後センタン祭(千回祭のこと)が行われた所で、雨乞いではどんぶら淵の水がえをして淵を浄めてから、集会所で村中の人々が長い数珠を廻しながら咒文(じゅもん)を1,000回唱えると霊験があって大地は雨に潤うといわれて、終戦の前後までは行われたのである。
また温泉を掘れば、水姫の神のお告げの如くこの川筋できっと温泉が出るであろうと長くいい伝えられているので、それを夢に見た土地の高橋氏が掘ったら水姫のお告げの如く湯煙りをあげてお湯がふき出した。時恰も昭和47年秋たけなわの頃であった。
これこそ、まごうべくもなく、どんぶらの織姫のお告げによるものだと、その霊験に感激して、どんぶら姫にお湯を捧げ献湯して、石部温泉どんぶら姫の湯と名ずけられて、10数軒の家へ引かれてどんぶら姫の恩恵に浴しているのである。どんぶらとは深い淵の意味で、はじめ、はた織る姫がその美しい姿を、ハンサムな若者の新左衛門に見せて、貴郎だけに見せますものよと愛をささやきを語らったというロマンに秘められた美しい水姫の精に因んで、石部の海岸から川に沿って少し登った所に駐車場を造って、小川のほとりに天然の地形を利用して、大露天風呂を造って、伊豆の情緒を漂わしているロマンなどんぶら姫のお里の民宿「いでゆ荘」がある。