斉藤重蔵

公開日 2021年02月10日

岡藩主に招かれ椎茸栽培

 岩地の斉藤重蔵は、天明元年現在の九州屋(当主民哉氏)に生まれた。寛政6年14歳の時兄と家を出たが、文政2年(1819)39歳のとき九州豊後国(大分県)岡藩(七万石 現竹田市)11代藩主中川久教に招かれて椎茸栽培にあたり、藩直営事業の茸山を設けた。

重蔵は藩の杣頭として現竹田市内倉本、田世、長小野、大石の四か村の茸山で椎茸栽培の指導に当たった。杣頭とは技術的最高責任者で、原木の伐採時期判定、伏込場所選定、杣人の指揮監督にあたり、当時としては優れた才能を必要とされた。

製品は大阪の蔵屋敷に運ばれて出入りの商人に売却されたが、その利益の内2割を与えられていたようである。

重蔵の椎茸栽培は大成功を収め、藩の財政を豊かにしたので藩主は重蔵を召し抱え苗字帯刀を許した。

 佐伯藩からも招かれる

岡藩に刺戟された隣の佐伯藩(2万石 現佐伯市)でも椎茸栽培に乗り出し、ここにも重蔵は招かれて、因尾村で藩直営の椎茸栽培の指導をして成功した。文政5年(1822)以降のことと思われる。

 岩地の斉藤家(当主民哉氏)にあったという古文書に、

 覚

一 先極之通仕入銀並雑用運賃口銭水上等指引利益之内弐割相渡シ可申候

一 茸山仕入銀高ノ儀者毎度勘定帳ニ相記シ置〆高之処染矢国蔵、沢田九馬之助其許立合ニ而印形致置候。大阪問屋仕切状高ニ而勘定可致事。

〔以下省略〕

 これは佐伯藩茸山元締めの2役人から茸山杣頭重蔵に宛てたもので、佐伯藩でも純益の内2割を与えられている。

滝沢馬琴編集の兎園小説に

重蔵のことは滝沢馬琴が編集した兎園小説に採録されていて、筆者は関 思亮で、文政6年(1823)夏に沼津にいた和田伝兵衛という者へ娘から来た手紙をそのまま書いたものである。それには、

「豆州岩地村と申す処の漁師の子斉藤重蔵と申す者、十四才のとき兄と共になりわいのため家出いたし椎茸を作りその売買にて近々歩き候。兄は三、四年過ぎて弟を捨てて国に帰り両親と共に暮らし居りしは三十年近き前に御座候。

然るに去年豊後の中川候城下と申す処により私方宛金子二十五両岩地へ遣わされ候様にとたのみ越し候」

「私方では一切存ぜぬこと故、はるばる豊後より岩地へ如何なる縁あるやと早速書状を出し、飛脚をよび相渡し遣わし申候処、其の人の話にて初めて相わかり十四才の時家出せし重蔵のよし。

 豊後の国に至り椎茸栽培を知らぬ処へ造り方を教えしに、国益なりとて領主の御抱えになり、年毎に七十両の金を賜り岡の岳山という所にて大造りに家を建てて追々仕合わせよく三百余人召使の者有之、日々椎茸を作り串にさし焼きて大阪に出し、春秋ともに二万両も取入るる身上なりてこと書載せ御座候(中略)、彼の重蔵と申す者当年四十三歳となり、只今にては山中に家を建て三百余人の手人を使い、自身は日々椎茸を作り候処を見廻り候に乗りかけ馬にてあるき候よし。

 妻は阿州のよし、領主より苗字帯刀御免あり、まことに重蔵漁師の子にて細き煙たてかねし身のわずか二、三十年にかくなり出で候事、天運にかない候ものに御座候。

和田たち

 せき 御ふたかた様」

 とあり、これで見ると重蔵が岡藩に招かれたのは文政2年(1819)39歳の時で、同6年43歳の時には大造りの家を建て300余人の人夫を使い馬で茸山を見廻っていた。この重蔵が、藩財政を豊かにして苗字帯刀を許されたのは入藩5年目のことであった。

 前回の和田たちの手紙では年70両の金を賜りとあるが、重蔵は豊後から故郷へ送金していて、飛脚が金を抱えて届けて来たので地元では何の金かと驚いていたという伝えがある。

 

晩年夫婦で錦を飾って岩地に帰ったが、重蔵は弘化2年(1845)2月5日没し65歳であった。法号「孝道順心信士」。妻は梅といって阿波(徳島)の出で、安政4年(1857)2月10日没し、法号は「瑚室妙珊信女」とある。

梅は岩地では塗下駄のお梅と呼ばれ、当時漁村の質素な暮らしの中で、日常塗下駄を履いていて評判になったものであろう。

生前重蔵使用の刀剣、書箱、またお梅の用いた鏡、銀の箸、長箪笥等があったという。

重蔵と、兄弟の音次郎も共に豊後に行ったが、晩年岩地に帰ったといわれ、この人の墓誌に「豊行儀礼禅定門、文政十丁亥八月十八日」とあり、豊後に行ったことを物語る。また山口からも重蔵を頼って豊後へ椎茸作りに行った者もあるという。

 

 

参考文献

町政施行100周年記念誌 郷土の先覚者たち(平成13年2月 松崎町発行)