長者伝説(粟の長者)

公開日 2021年01月25日

 聖武天皇の時代に、遠江の人、磯崎八郎吉富が伊浜を支配した。吉富は観音信者であった。ある夜の霊夢に、「伊浜の海に霊木を浮かべた。早く拾え。高僧に我が姿を刻んでもらえ」とあったので。翌朝、家臣の山地一角を伊豆の海に遣わして霊木を探させた。一角は、6尺8寸(約206cm)の角材が漂っているのを見つけて主人に告げた。吉富はそれを曳き上げさせて高僧を待った。行基が巡ってこの地に来られた。吉富は早速に観音像の彫刻を請い、守り本尊として邸内に安置し、日夜礼拝した。

吉富は70歳で没し、その子、五郎吉勝が嗣いだ。一角も没して、その子の一角が仕えた。2代一角は早世して孫の一角が仕えた。

3代目の一角は19歳であった。観音は一角の夢枕に立った。「汝の祖父が零木を拾い上げたが、海中へ捨てよ」と言う。一角は、主君が篤く信仰する尊像を海へ捨てることはできない、と思っていると、次の夜も同じ告げの夢を見た。3日目の夜も同じ夢を見た。そこでとうとう一角は、主君の居室に忍んで盗み出し、海中に投げ込んだ。そして、再び主君の元へは戻らず、相模(神奈川県)へ渡って暮らした。

桓武天皇延歴12年(793年)正月の朝、伊浜の漁師達が鰯網を引いていると、仏像が網に引っ掛かった。老人の漁師が、「沖へ捨てろ。それでも網に掛かれば、縁が深い仏様だ」と言う。若い衆がはるか遠くの沖へ捨てに出掛けた。翌日、仏像は再び網に掛かった。老漁師は御縁のある仏様だ。とにかく俺の家へと、捧持して安置した。伝え聞いた遠近の男女がたくさん集まって合掌した。老人は一堂を建てて安置した。

伊豆の伊浜へ仏様が上がったという評判は、相模の一角の耳にも入った。もしや20年前に捨てた観音ではあるまいかと、一角はひそかに伊浜を訪れた。主家は亡びて庭には草が茂っていた。一角は茫然と見入っていた。一角は観音堂に駆け付けた。果たして、かつて海に捨てた観音である。泣いて伏し拝んだ。一角は堂守をして仏に仕える決心をし、堂にこもった。

ある夜、観音が夢に現れて「汝は蛇野(あざの)へ行け。野馬が待っている。野馬に従って粟を蒔け。長者になること疑いなし」と言う。気が付くと、一角の手には七穂の粟が握られていた。一角は蛇野ケ原へ行った。野馬が待っていた。野馬にまたがって粟をまいた。見渡す限り果てなしの蛇野ケ原は、粟の穂で波打った。一角は粟の長者になった。粟の長者は富み栄えたが、その子孫は働かず遊んで暮らしたため亡びた。屋敷跡を長者ケ原と呼んでいる。

長者ケ原

 

  類話

粟の長者は粟餅をついて邸宅の壁を塗った。そのころ飢饉(ききん)があった。貧しい人々は野山を分けて木の根、草の根を食った。長者はそれを眺めていた。飢饉が続いても長者の蔵には粟が山と積んである。

ある朝、長者は邸の壁に大穴があいたのを見つけ、飢えた人の仕業だなと立腹した。次の朝も、その次の朝も、穴は大きくなる。長者は厩から馬糞を運んで、粟餅壁を塗りつぶした。それでも壁に穴があいた。飢えた人々には馬糞も牛糞もない。

長者の家運は衰微に傾いた。長者は空しく京を指して落ちて行かねばならなくなった。漂泊の旅に出たのである。

長者の厩には75頭の馬がつないであった。主人が京へ上ると、馬は綱を噛み切って後を追った。主人の後を追って海を泳ぎ、御前崎の近くで亀に聞いたところ、まだうんと遠いと言われ、気力を無くした75頭の馬は沈んでしまい石となった。御前崎町下岬の駒形石(氏神駒形神社の由来となっているがそれである。

「伊豆の伝説」

 

 参考文献

松崎町史資料編 第4集 民俗編(下巻)   発行:松崎町教育委員会