大蛇伝説

公開日 2021年01月22日

甲人の塔(増訂豆州志稿)

甲人 某(なにがし)の石塔が、一条村(現南伊豆町)の山中の塔の平という所の大石の上にある。昔、甲州(山梨県)の猟師、某が此の山中に於いて大蛇に吞み殺された。その冥福を祈るためにこの石塔を建てたという。

 岩科村の南にある大池に大蛇が住んでいて、山仕事をする人を苦しめていた。かつて甲州から弓のうまい猟師が山口(岩科)に来て、猪・熊・鹿を狩りとっていた。村の人が、大蛇が害をして困っていることを話したところ、それを聞いて私がたやすく蛇を退治してくれたら沢山お礼をしましょうと言い、十数人がそれぞれ弓矢や槍を持って甲州の猟師と共に大池に行き、東北の方向の山の向こうに檜ケ原(ひがはら)池があり、大蛇は両方の池を行き来して猪・鹿、時には山仕事をする人を吞み殺すことを告げた。これを聞いて甲州の猟師は毎日山々を、大蛇を探して歩いた。そういうある日、出かけたまま幾日も帰らなかった。村人は、これはきっと大蛇にやられたのだろうと、心配して皆で手分けをして山中を探したところ、猟師の弓矢だけが残り、あたりの草が血に染まっていて、大蛇に吞み殺されたことが分かった。大急ぎで甲州の猟師の実家にこのことを知らせた。亡くなった猟師には二人の娘があって、女ながらも二人とも弓がうまかった。父の非業の死を聞いて大変嘆き悲しんだが、どうしても父の仇を討ちたいと、連れだってやって来た。村の人達も姉妹に協力して大蛇を探し、遂に姉妹は大蛇を射殺して、父の仇討ちをすることができた。

 今、蛇腐(じゃぐされ)という所は大蛇が倒れた所で、小杉原の川のほとりである。猛威を奮った大蛇だったので、その冥福を祈るために大蛇院と言う名の小さな庵(いおり)を建てた。

 姉が窪・妹が窪は、姉妹が大蛇を待ち伏せたところ、蛇回り嶺は、池代の檜ケ原池から大池へ大蛇が越えたところという。

 村里のつまらない話で、記録しておくほどのものでもないかもしれないが、土地ではこの話を伝承して衰えることもない。これは姉妹の孝行の行為が人々の心をうつからである。残念なことには、姉妹の郷里や名字は分からなくなってしまった。

以上の出来事は、聖武天皇(724~749)か、桓武天皇(781~806)の時であったという。

 

大蛇伝説に関わる地名

一連の物語は伝説であろうが、次の関連地名がある。大池(南伊豆町)は現在一面の葦の原となっているが、大昔は文字通りの池であって、満々と水を湛え、水は池尻から岩科川へ流れていたが、ある時、蛇石側の山が決壊して土石流が蛇石の村を襲い、大池は浅くなり、やがてそこを伏倉の人たちが開墾して新田を作ったという。以後全面が水田となり、主として岩科村の八木山・峰の人々によって耕作されてきたが、昭和30年代に耕作は放棄された。

 池代には字違いの火ケ原の地名が残るが、池はない。姉越山がある。

 小杉原には、大蛇が挟まれたと伝えられる蛇ケ挟(じゃがばさみ)の地名がある。

 

蛇骨山大蛇院(現高原山大地院)

 寺伝によると、創立年月は不詳。伝説のように大蛇を葬ったとすれば、仁平元年(1151)以降であろう。

 室町時代の中頃、一時廃れていた大蛇院を、良徳首座が再興し大地院と改称、臨済宗建長寺派となる。

 正徳4年(1714)洪水により流出、現在地に再建し荊棘山大地院と称す。その後、帰一寺の塔頭となる。

 昭和26年9月28日、本山の承認を得て山号、寺号を高原山大地院と改称。

 院内に、大蛇伝説にまつわる大蛇院和讃が今も残されている。(「松崎町文化財に関する資料第2集」記載よりも簡明である)

大地院

 

   大蛇院和讃

帰命頂来鳥うたい 花も昔のままに咲く

ここに甲州篠原の 絹屋渡世の幸エ門

蛇野が池のほとりにて 大蛇に吞まれ果てしとぞ

風のたよりにこれを知り おすまおよその姉妹は

弓矢をとって七年の いばらの道の明け暮れに

仁平元年辛未 小杉の原を訪れぬ

神のお告げの夢枕 西と戌亥のその方に

六つ七つの柵をかけ しめ飾りして待つ程に

大蛇たちまち桧原の 薄をわけて現わるる

姉は伏窪 妹が窪 手練の業の矢を射れど

鱗に当り寄せつけず 怒り狂いし蛇の前に

矢種少なくなりけるを 姉をはげます妹の

声に一矢をとり出して これを最後の梓弓

ねらい違わず蛇の腮に ついに立ちたるめでたさよ

蛇腐岩にはさまりて やがて息の緒たえにけり

親の仇を討ち果たし 今は心もはればれと

八幡様に弓矢筒 宮地に植えた二本杉

語り伝えて名を残す 草の庵は大蛇院

 

 御詠歌

いきしえも 今も変わらず 人の子の

誠を止む この大蛇院

春秋の光り 静かにねむるべし

大蛇の骨を秘めて立つ寺

 

この他の大蛇退治伝説

 大蛇退治の伝説は、他にもいくつかあるが、甲州の人(猟師・絹屋・針屋など)が大蛇に吞み殺され。その姉妹が父の仇討ちをするところは共通である。

野田の伝説

 池代の長九郎山の南に檜ケ原があって、そこに池があった。そこから大池に時おり大蛇が通った。それでね、甲州の絹屋さんがそこでもって眠くなって、どうにも眠くなって、寝ちゃあ悪いと思って気を張ってたけんど、いかにしても蛇の気でもって眠くなって、寝たあそうですよ。それで蛇が絹屋さんを吞もうとしたところが、腰にさしていた守り刀が自然にさやから脱けて、護身用の非常に効用のあるもんだったから、蛇が吞もうと思っても吞めなかった。そうしたところが、後から行った山越の人が、「これは不思議な刀だこれは由緒ある刀だろうから、俺が一つ盗んでやろう」っていうがでね、寝えっているから山越の人は腰の物を取って、盗んだ人はその刀持っているから吞まれないでね、その刀盗まれた人は蛇に吞まれちゃった。

 その人に女の子が二人あって、それが親の敵取れえ来て、小杉原の八幡さんの境内でもって、しきりに剣道や弓術を習って、大蛇が山から出るのをつけねらっていた。その娘らがだいぶけいこを積んで、こえなら大丈夫、敵を取れるという時、姉ケ窪と妹ケ窪に二人で別れ別れに入って、一所懸命念じていたところが、大蛇が通りかかったですな。もう目玉が松明(たいまつ)のように赤くなって、こうこうとその辺が輝いて明るくなったって。そして、その娘がいるもんだから、その蛇体が大きな口をあいて吞もうとする。こっちは百本ずつ矢を持って、それで待ち伏せしていてえ、何本弓を射てもこけら(鱗)が厚くて通んなゃあ。それでただ一本になった時に、これがなくなったらば自分の命は危ない。ひょっと考えついたは、唾を矢の先につけて、最後だからよくねらいをこめてあわてずにやったところが、大蛇が口をあいたところで、ひゃあ大丈夫だと思って口をあいたところが、その口の中へと射込んだから、その蛇が七日七夜のたうってドタンドタンてやって、死んだ所を蛇ぐさり窪っていう。でまあ敵討って大蛇院ってお寺に絹屋のお墓を作った。

(野田)

 小杉原の伝説

江戸時代の正徳(1711~1716)の頃、甲州国八代郡篠原村の住人で、売るのが渡世の者が、松崎の伏倉の旧家、セキセイ太夫の所へ泊まっていた。

アザノガハラ(蛇野ケ原)の池の主として大蛇がいた。絹屋は、その大蛇を退治しに行った。吞まれながら大蛇の腹を切るつもりで、名刀を持っていった。池の傍らで寝ていたところ、名刀が大蛇除けになった。セキセイ太夫のお供の者が、刀が大蛇除けになっているのを知って欲しくなった。帰宅後、その晩、刀をすり替えた。絹屋は刀をすり替えられたのを知らないでいたので、大蛇に吞まれてしまった。

絹屋には娘が二人いた。池代のヒガハラ(日ケ原)に、大池と小池と二つの池があり、大蛇は終始この二つの池と蛇野ケ原を行ったり来たりしていた。姉妹はアネグスヤマ(姉越山)とイモウチクボ(妹窪)で、大蛇を待ち構えていた。出て来ないので、姉妹は計略を巡らした。姉が「妹恋しや、矢種が尽きた」と言うと、その言葉を聞いて大蛇がやって来た。そこで妹が「姉さん卑怯の矢もござる。矢の根、矢の根へツバをつけ、アギの下へと射込みます」と言って射た。手負いになった大蛇は山通しに来て、蛇挟みという穴に入り込んだ。その穴で七日七夜うなって大蛇は死んだ。

 その大蛇の骨を埋めたので、その寺を大蛇院と言った。

「松崎の民俗・小杉原」

 

船田の伝説

 絹屋が大蛇に吞まれたので、父の仇に娘が来たが、矢で射てもなかなか当たらなかった。大蛇が笑うときに口が開いたので、そこへ討ち込んだ。そして、この大蛇の骨を埋めた上に寺を建てたので、大蛇院と名付けた。

「松崎の民俗・船田」

 

伏倉・針屋の刀

 昔、大蛇が長者ケ原の天城の池へ通っていた。その当時、尾張の針屋が刀をさしてこの地に来た。大蛇がその針屋を吞もうとしたところ、腰の刀が自然に抜けて大蛇に向かったので、針屋は吞まれなかった。それを見ていた人が、刀をすり替えてしまった。そのために針屋は吞まれてしまった。

 針屋の娘二人が、その大蛇を退治に来た。小杉原のアネガクボとイモウトガクボという所で大蛇が通るのを射た。最後の矢が大蛇の目に当たり、蛇は転げて岩に挟まった。その岩をジャガバサミという。

 大蛇の歯と、使った矢を伏倉の中隠居は蔵している。しかし、娘二人と特別な関係があるとは言われていない。

「松崎の民俗・伏倉」

 

伏倉・関 清太夫家跡

 的場家の前の、畑になっている所が屋敷跡で墓がある。この周りには関家一統の家がある。小杉原の大蛇和讃に出てくる甲州の絹商人が、伊豆に来るたび泊まったのが、この関 清太夫の家。大蛇に吞まれた父の仇を討つ姉妹で伝説である。

「言い伝えの記」

 

伏倉・藤池家の弓と矢

 中隠居 藤池太郎右衛門家に古い弓と屋の根があった。昔、岩科の山中で姉妹の娘が大蛇を射たときの弓という。(岩科は小杉原の誤りであろう)

「言い伝えの記」

大蛇伝説に由来する地名

池代、小杉原地区には大蛇伝説に由来する地名が残っています。

 

〇小杉原
ジャバサミ(ジャンサマ)蛇ケ挟

大蛇伝説の姉妹に射たれた大蛇が苦しみ、断崖に転落して巨岩の間に挟まり、七日七晩苦しんで死んだという所の名。八幡神社裏山の東側にあたる。

 

〇池代
 イケノダン(池ノ段)

池代川の上流、左側にある山地で大きな窪地になっている。昔の池の跡で、ここに大蛇が住み、里人は池に影を落とさぬように朝は西側、夕方は東側を通ったという伝えがある。

 

ヒガハラ(日ケ原)

池代集落発祥の地、桧の自然林が繁茂していた所で、枝が擦れ合いそれが自然発火して火が出て、三日三晩燃え火の原になったという伝えがあり、火ケ原とも書かれる。池もあり、大蛇伝説にもかかわる地である。

 

オオドコロ(大処)

池の跡、大蛇を退治した場所。伝説の中で、大蛇と姉が逢った所「違うところ」から出た名であろうか。山の頂上近くだが広々とした所で、この西側の中程に池があって、大蛇がいて妹の知らせで姉が父の仇を討ったところ。

 

アネゴシヤマ(姉越山)

岩川原の窪の途中の東側で、明伏・小杉原集落境にあたり、大蛇に吞まれた父の仇を討ったおすま・およそ姉妹の伝説に関連し、姉が小杉原から越した山といわれる。

 

イモウトガクボ(妹ケ窪)

五軒家の裏山で、姉越山と向かい合っている。大蛇退治伝説の妹およそが潜んで大蛇を待ったところ。

 

テヅカイ(手使)

大蛇伝説にまつわる地、妹が姉に大蛇の通るのを手で合図した場所。

 

 参考文献

松崎町史資料編 第4集 民俗編(下巻)   発行:松崎町教育委員会