金剛山 群定寺

公開日 2020年12月07日

所在

松崎町桜田321

宗派

臨済宗建長寺派

創建

嘉禄2年(1226年)

本尊

大日如来坐像

安置仏像

弘法大師立像、地蔵菩薩坐像、矜羅童子立像、制 迦童子立像

 沿革

伝承に僧空海が伊豆巡錫の時、桜田が成務天皇の御代(131年~192年)伊豆の国の群邑(村)を定めたところである事を聞き、寺を建て由緒にちなんで郡定寺と定めたといわれるが、もし空海が来たとすると、富貴野に一寺を設けたと伝えられる延暦19年(800年)頃であろう。

寺の記録によると、それから400年余りたった嘉禄2年(1226年)時の執権北条泰時が伽藍を作り、その昔行基が自刻して大日堂に安置したという大日如来を本尊として祀った。そのため寺の開創は嘉禄2年、開基が泰時となっている。

当時は、真言宗の大寺で付近には宿坊が立ち並んだと伝えられ、いまでも坊ヶ谷の地名を残している。

その後、那賀郷が鎌倉東光寺に寄進されたため、寺は東光寺末となった。

豆州志稿によれば、元応中(1319年~1320年)大破していた寺を、古山が再興して臨済宗に改めたという。そのため古山を開山としている。

その後、寺は火災に遭い衰微していたが、小田原の北条氏直(5代)が寺領を寄進して寺を再興した。そのため氏直を中興開基としている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの時、堂宇は兵火にかかりすべて焼失したという。明治の初め、付近の水田より発見された寺の鰐口はこの際に失われたものといわれている。

発見された鰐口の報告文書(明治3年7月桜田村より韮山県役所宛)に、

 

「……兵火乃為ニ山林堂宇悉ク焼失之由聞伝ニ有之字飛石ト申処江右之節飛去候石迚田浦之溝際ニ有之又同所与リ堀出候鰐口壱ツ鍬之跡有之永享二庚戌年仁科之庄郡定寺ト年号有之……」

 

天正以来、260年余り土中に埋もれていたことになる。

寺の再建に当たり、本尊の失われた事を知った宮内村の渡辺織部は、仏師長谷川儀重に同一の像を作らせ祀ったのが現在の本尊である。(寺の大日如来畧縁起)

江戸に入り慶安2年(1649年)3代将軍より一一石六斗の朱印を受け、代々受け継ぎ明治維新の際に返納された。

 

現在の本堂は一九世眠山の時より建築準備に入り、二〇世現涼和尚の代、天保12年(1841年)に建立されたものである。

 

落成に当たって現涼は、先師(前住)眠山のこの苦労に報いるため「再中興開山」の称号を贈った。

以後、庫裏も本堂も茅葺きのため、修理、葺き替えを度々行ってきたが、昭和3年(1928年)本堂は瓦葺きに大改修を行った。

また寺は明治6年(1873年)公立小学又新舎の教場となり多くの子どもたちが学んだ所である。

 年中行事

正月 大般若会

旧暦2月28日 大日如来忌

 境内堂宇

本堂 庫裏

歴代住職

開山古山和尚 二世痛応和尚 三世敬雲和尚

四世春沢和尚 五世亮山和尚 六世大徹和尚

七世神州和尚 八世明堂和尚 九世昌桂和尚

一〇世如桂和尚 一一世天峰和尚 一二世渓山和尚

一三世密厳和尚 一四世千英和尚 一五世即住和尚

一六世梅厳和尚 一七世常峰和尚 一八世慶住和尚

一九世眠山和尚 二〇世現涼和尚 二一世栄堂和尚

二二世良川和尚 二三世敬道和尚 二四世玄竜和尚

二五世玄道和尚 二六世清澄和尚 (現住)

寺宝

鰐口 県指定重要文化財

刻名

敬白大日本国仁科荘那賀郷郡定寺住持比丘

有援永享庚戌三月吉日勧心沙門有蓀

助縁俗若干大工山木源五郎

 付記

一 境内に寺の鎮守十二社神社(権現)があったが、昭和29年(1954年)老朽化したため、桜田八幡神社に合祀した。

二 境内に、イチョウの大木がある。

参考文献

松崎町史資料編 第1集 神社・寺院編