太平山 西法寺

公開日 2020年12月02日

所在

松崎町那賀302

宗派

臨済宗建長寺派

 創建

承安3年(1173年)

本尊 

阿弥陀如来坐像

安置仏像

観世音菩薩半跏倚像 釈迦如来立像 観世音菩薩立像 地蔵菩薩立像 韋駄天立像 開山和尚倚像 二天像

 

沿革

那賀の集落の奥、山を背にした閑静な地に寺がある。山門入り口に、たたずむ六地蔵は寛政6年(1794年)8月の建立。以来200年の間、時と人の心の移り変わりを見つめてきた。

境内に入ると、右側にビャクシンの大木、目通り3メートル、開創の頃植えられたものであろうか。寺の古さの象徴である。近年無住となって堂宇の維持が困難なため、庫裏は取り壊されて本堂と山門、その左右の塀が残されている。

現本堂の造立がいつか記録されていないが、間口7間奥行き6間、昭和30年代に茅葺きより瓦葺きに改修して立派である。

平安時代末期の承安3年(1173年)の開創。本尊は阿弥陀如来で観世音菩薩と地蔵菩薩を脇侍としている

鎌倉時代、承久年間(1219~1221年)に4代将軍頼経より、供養梁として地所若干の寄付を受け、長く受領したというが火災に遭い、その記録の総てを失ったため定かでない。

南北朝時代、貞治年間に鎌倉五山の一つ寿福寺の前住、要堂(至徳3年11月22日示寂)が来て開山となった。

足利時代、足利尊氏が那賀郡を鎌倉の東光寺に寄進したため、西法寺をはじめ建久寺、吉田寺、平福寺、郡定寺等と共に東光寺末となったが後船田の帰一寺末に変わったという。

その後、12世の楊岸が出て寺を再興、幕府より一二石一斗の朱印地を受領する。この時和尚を陰に陽に助けたのが時の大檀越(大檀家)現那賀の大屋土屋家の祖先佐野右衛門、法号を見性院西岸紹方居士(万治元年11月卒)といい寺の中興開基と称されている。

明治元年(1868年)10月、新政府の命により慶安元年(1648年)8月17日に受けた朱印地は返納した。以後檀家の少ない寺は、次第に維持が困難となり戦後は無住の状態となった。

なお当時は、伊豆33か所観音巡りの第3番札所であるが、これは旧境内にあった西蓮堂が維新の際、廃堂となったためその本尊、正観音を移したものである。明治13年(1880年)の記録。

 

   本尊 観世音菩薩 木像

 西蓮堂ト号シ当国三十三ヶ所ノ其ノ一ニ居り村民ノ設立スル所ナリ維新ノ初メ之ヲ廃シ其ノ本尊ハ移シテ当寺本尊ノ側ニ安ズ

 

「三十三ヶ所の其の一」は、一つの意味であろう。場所は旧境内、また字西蓮寺とも記されている。

年中行事 

8月 施餓鬼会

 境内堂宇 

山門 本堂

 歴代住職

 開山要堂和尚  二世真仲和尚  三世玉田和尚

 四世竜江和尚  五世心空和尚  六世庭筠和尚

 七世輝東和尚  八世文苑和尚  九世月林和尚

一〇世天渓和尚 一一世心翁和尚 一二世楊岸和尚

一三世鵬洲和尚 一四世明河和尚 一五世天竜和尚

一六世東岸和尚 一七世庸山和尚 一八世絃峰和尚

一九世竜潭和尚 二〇世仁堂和尚 二一世桃谷和尚

二二世春翁和尚 二三世泰嶺和尚 二四世亀海和尚

二五世宗俊和尚 (以後船田帰一寺住職兼務)

 

寺宝

阿弥陀如来像 観音菩薩立像

地蔵菩薩立像 二天像(二躰)

 

付記

江戸時代の末、中村(那賀)に三餘塾を開いた土屋宗三郎三餘の顯彰碑が境内入り口にある。

境内中庭に、目通り3メートルのビャクシンの大木とツバキの古木がある。

末堂として、村内清水に大工仲間の結社「太子講」のシンボル聖徳太子を祀った太子堂があった。

顕彰碑
顕彰碑

 

参考文献

松崎町史資料編 第1集 神社・寺院編