高橋 郁郎

公開日 2020年12月01日

明治25年(1892年)3月、賀茂郡岩科村(現松崎町)雲見に生まれた。地元の小学校から静岡県立中泉農学校(現磐田農高)に進み、42年に同校を卒業すると農商務省農試園芸部興津支場の見習生となる。

見習生修了後、同支場に残り助手となった。彼は無類の研究熱心で、大正2年(1913年)22歳のとき、はやくも「柑橘栽培」という大冊の著書を出版した。

大正6年(1917年)、園芸技師として熊本県に招かれ、果樹栽培技術の指導に当たった。同10年7月、農商務省園芸試験場の技師となり、以後15年間、中央で柑橘栽培の研究に没頭。昭和6年(1931年)には、前著を大幅に改訂した「柑橘」を世に送り出した。

「温州ミカンは世界一という自信を持つことだ」と説いたこの本は、柑橘栽培指導書の決定版といわれ広く全国のミカン農家に読まれた。

昭和10年、静岡県柑橘専任技師となる。そのころ、静岡ミカンは先進地の和歌山に追いつき追い越した。彼は「日本一のミカン産地である静岡県には、県柑橘試験場が必要だ」と提唱し、その実現のために奔走する。そして同15年、ついに県立柑橘試験場を創設させ、初代場長に就任した。彼はここで、施肥、消毒法など数々の技術改革の成果をあげる。

戦争が激しくなった昭和18年、時の県知事今松治郎が「ミカン園をすべて伐採して、麦畑、芋畑にせよ」と命令しようとしたことがある。彼はこれに体を張って抵抗、「平地の少ない本県の農家は、ミカンで生きるしかない」と主張し、静岡ミカンの絶滅を未然に防いだ。

昭和21年、静岡県柑橘試験場長を辞し、日本果実協会(日本園芸農協連合会の前身)を創立して専務理事となる。全国の柑橘産地を駆けめぐって、荒廃したミカン園の復旧、生産向上と品質改善、消費拡大、海外輸出再開などの諸課題に取り組み、戦後の日本ミカン産業発展の原動力となった。昭和28年、海を渡ってアメリカ、カナダの柑橘産業を視察。

専務理事として在職すること満17年。その間、雑誌「果実日本」の編集長兼主筆を務め、原稿執筆と全国への講演旅行に明け暮れた。講演は通算800回にのぼった。

昭和37年5月退職。同年、静岡県柑橘試験場の玄関前に、長年の功績をたたえて郁郎の胸像が建てられ、「高橋柑橘顕彰会」が設けられる。

昭和56年(1981年)、享年82歳で死去。没後、高橋柑橘顕彰会によって追悼文書「柑橘の父高橋郁郎」が刊行された。著者は前記のほかに、自伝「果実と共に半世紀」(昭和39年刊)など。主著「柑橘」は五次にわたり改訂増補され、昭和47年まで発行され続けた。