公開日 2020年11月19日
所在
松崎町宮内37-1
祭神
積羽八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)
由緒
式内社で、創建は不詳とされているが、平安時代初期、弘仁2年(811年)伊予国(愛媛県)越智郡三島より遷祀したといい、また一説に弘仁8年(817年)国府三島より遷祀したとも伝えられている。
社名については平安末期文治元年(1185年)文書に、伊豆国那賀郡三島宮、慶長5年彦坂九兵衛の神領付には「松崎上宮神領分」とあり、正徳2年(1712年)の棟札に伊那上宮とある。宝暦9年(1795年)円通寺との山論(山林の境界の争い)の評定所裁決書には三嶋大明神とある。
神職金指(差)氏は、豆州志稿によると伊予国河野氏の後裔で三島明神と共に当地に来たといわれる。
日本書紀の応神天皇の巻に、新羅王が造船の匠を日本に送ったことが記されており、古い伝えでは、当地にも帰化したこの猪名部が集落を営み、産土神として、伊那上、下社を祀ったという帰化人奉祀説があり、那賀川の上、下により区別され、伊那上は三島神社の系統へ移っていったと思われる。
平安時代、延喜7年(907年)式内社に列し、伊那下神社とは相対的に存在した社であった。
鎌倉時代、「承安3年(1173年)源頼朝公参詣三島明神」と金指家過去帳にあり、のち頼朝より、社田寄進を受け、社殿宏壮で末社80有余、伊豆西海岸第一の宮であったという。
本殿内の神像6躰は、鎌倉前期の作で、同中期の神鏡「松喰双鶴鏡」は県文化財に指定されている。
安土桃山時代天正18年(1590年)の兵火で焼失したが、社司金指義長が本社と40余の祠を再建し社の面目を保持した。
江戸時代に入り慶長6年(1601年)再び火災でことごとく灰燼に帰した。金指家文書に「松崎村から出火、風強く宮内村不残類焼」とある。慶長13年(1608年)大久保長安寄進の「釣燈篭」は県指定文化財で銘文に「奉寄進豆州賀茂郡那賀神社」とあり、これは当時伊那上が社勢盛んで、那賀郷中の中心社の位置に在ったので那賀神社と銘打ったものであろうか。社領20石(内上之社15石、下之社5石)あったという。
明治6年8月、雲見から小杉原に至る11ケ村の郷社で、明治22年4月の町村合併により、松崎、岩科2ケ村の郷社、のち松崎の郷社となった。
境内には忠魂碑、西南戦争死者碑が建立されている。また町指定天然記念物の亀甲松(樹齢350年余)があったが惜しくも平成5年3月枯死した。
参考文献
松崎町史資料編 第1集 神社・寺院編