小沢一仙

公開日 2019年07月24日

 天保元年(1830年)伊豆那賀郡江奈村(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に石田半兵衛の長男として生まれた。幼名馬次郎。父半兵衛は腕の良い宮大工として知られた小沢流の彫刻師で、伊豆各地の神社や寺院に彫刻作品が今も残る。馬次郎は少年時代からこの父に建築や彫刻を学んだ。学問も好きだったが、これは独学であった。長じて父の彫刻流派を継ぎ、小沢一仙信秀と名乗る。

 

無難車船の建造

安政4年(1857年)8月、28歳のとき、江奈の掛川藩陣屋(当時西伊豆地方は掛川藩の所領だった)に無難車船建造を進言する建白書を提出した。無難車船というのは、7隻の和船をつないで1隻の大型船を造り、両舷にとりつけた水車を動力で回転させて航走させる、というアイデアだったらしい。

その頃日本近海には外国船がしきりに現れていたが、日本には外洋を航海できるだけの性能を持つ船がなかった。

文久2年(1862年)3月、一仙は江奈海岸に竹矢来で囲った造船所を設け、自費で近在の大工を集めて無難車船の建造に着手した。動力は蒸気機関にしたかったが、得られなかったため、やむなく人力で水車を回転させる構造にした。しかし結果は無残な失敗であった。進水させてみると船は動かず、大勢の見物人の冷笑を買ったという。その後、一仙は故郷を出て志士活動に入った。はじめ甲州にいたが、のち京都に出て新しい軍用武器の開発に努力したりしている。

 

琵琶湖の運河堀割計画

慶応2年(1866年)9月、一仙は画期的な建白書を加賀藩主前田家に差し出した。越前の敦賀と近江の琵琶湖を結ぶ16キロの運河堀割計画である。これが開通すれば、日本海と京・大阪が直接船で行き来できることになるわけで、メリットははかり知れないものがあった。加賀藩はこの案を採用し、準備にかかったが、翌年大政奉還となり着工には至らなかった。

 

志士活動

慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いが起こり、時代の流れが急転すると、一仙は官軍に呼応して挙兵した。公家の高村実村を総帥にかつぎ、勅命のないまま高松隊を組織して東山道を東に向かった。美濃・信濃の諸大名を帰順させつつ2月に甲府に入ったが、ここで彼らが正規の官軍ではないことが知られ、一転悲劇が起こる。一仙は偽勅使の首謀者として捕らえられ、幕府の手で処刑されてしまう。39歳であった。山梨県身延町の常福寺に墓がある。

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