公開日 2019年01月21日
佐藤家の先祖
佐藤家の先祖は紀州の熊野から来て八木山に住んだという。八木山の熊野神社はこの時佐藤家が祭ったと伝えられ、佐藤家には粟田口久国、長船光忠の2剣が秘蔵されていたという。
先祖縫左衛門信行は地方28か村の大庄屋であったことが神社の棟札にあったというが、今この棟札は無い。
菩提寺永禅寺が一旦廃滅の危機に当たり、祖先縫左衛門信行が大荘官で再興に尽力したことにより、法号に永禅の2字をとり「永寿宗禅居士」と称したといわれ村一番の旧家であった。
佐藤家葉連(指川)に移る
八木山の熊野神社の棟札に「中世に指川に移った」とある。指川は昔葉連と呼ばれ、葉連の草分けとなったが、今も「葉連の大屋」と呼ばれている。
佐藤源吉は文政12年(1829年)12月13日に生まれ、通称を源吉、諱(本名)を信武、一獄と号した。父は丈右衛門、母は中村屋(こうや)の出であった。13歳の時父に死別し母方で養われた。農業のかたわら松尾の延寿院主武田快暁のもとで漢学を学んだ。
佐藤源吉は資性豪壮大胆で、村人は岩科西郷と呼んだという。県令からは佐藤に県令をやらしてみたいと言わしめた。
安政3年(1856年)5月29歳松尾、指川組名主、翌年4月割本名主(数か村の行政を総括する役目)となり、領主(掛川藩主)かっら名字帯刀を許された。
慶応2年(1866年)39歳名主兼掛川藩領の地方御用達を仰せ付けられ、扶持米を下されて江奈陣屋代官と直接談話ができる様になった。
翌年2月職務格別勉励により藩主太田備中守より目録金と時服、定紋付麻裃を拝領した。
明治2年(1869年)には、韮山県(この年伊豆は韮山県)から仁科組、松崎組み、岩科組3か郷総代名主を仰せ付けられ、明治4年廃藩置県により伊豆は足柄県から名主、鑑察下使を申し付けられた。
村営田代牧場の開設
佐藤源吉は、岩科村は原野が多く、まぐさに富むことに目をつけ、牧場を盛んにすれば村の利益が大きいと、明治2年、村民を説得し八木山字田代に牧場を開いた。開設にあたり村は1枚125文の郷札を発行し、村民に協力を求めて資金に充当した。
源吉は、足柄県令柏木忠俊の紹介で由利公正から外国種牝牛1頭を借り受け、専ら牛種改良と繁殖を図った。依頼多くの良牛を算出し、群馬県赤城山牧場や伊豆修善寺牧場開設に当たり、田代牧場から数十頭を分けた。
明治11年(1878年)、天皇東海北陸御巡幸の際には、静岡駅頭でこの業績を知事から報告された。しかし、明治16年には牛価下落の上、病気などで次々と倒れ、村民はついに廃牧を決めた。源吉は、これを嘆き存続に努めたが効なく、村民に図り源吉個人で20年期100円で牧牛及び牧場を借り受けた。依頼源吉は牧場内に家を建て、寝泊りし人夫を指揮して開墾事業に従事した。
この頃の歌に
- 数多き 牡牛牝牛を手飼いつつ 田代の牧に世を送るかな
明治28年(1895年)廃止したが、牧場址には当時を偲ぶ遺跡が残っている。
養蚕の奨励
佐藤源吉は、明治初年村民に養蚕を奨励し、自らも率先して桑樹を植え、明治6年より4年間自費をもって福島県信夫郡より養蚕教師を招き村内の養蚕改良に当たらせた。また、蚕種製造にも尽くした。
教育振興 郷学謹申学舎設立
減吉は教育にも熱心で、明治5年松崎組惣代名主勤務中同僚の名主大沢村依田佐二平、江奈村福本善太郎、道部村奈倉惣三郎と図り、江奈村の旧掛川藩陣屋跡に郷学(村の学校)謹申学舎を開設し、漢学、数学、英語の3科を教授する近代学校とし、塾長の旧会津藩士西郷頼母が漢学を、山川忠興を英語教師に招いた。塾生は寄宿生、通学生をあわせ100余名であった。
教育振興 山口昌隆を招く
源吉は明治10年(1877年)村内有志と図り、旧会津藩士山口昌隆(号 盤山)を招き岩科学校別科教員とし、漢学を教えて生徒の学力向上に努めさせた。
岩科学校独立校舎新築
独立校舎新築に迫られた源吉は、明治13年防風防火を考慮した土蔵造りナマコ壁、一部擬洋風の校舎を新築した。村民の寄付金290円で、源吉自身も50円寄付している。
土木公共事業への貢献
当時は岩科川に沿った堤防が道路を兼ねていたが、狭くて交通不便の上、洪水で決壊して良田を荒廃させた。源吉は、明治9年地租(土地の税)改正に当たり、率先して土地を寄付し、堤防を改良拡張し交通の便を図った。
伊豆の地租改正事業に尽力
源吉は、明治最大事業である地租改正に努力し、郡内依田、木村、山本の諸氏と豆州の地価修正に寝食を忘れて尽くし、伊豆国の地租軽減を図った。
源吉翁の逝去と頌徳碑
公共のため生涯を捧げ、私財を投じてきた翁も、大正3年(1914年)12月2日86歳で病没し、指川上野堂に眠る。法名開達院源道守信居士。大正10年頌徳碑が八木山永禅寺境内に建立された。
碑の題額は一木枢密院顧問官、碑文は鈴木子順師(山口壬生千春家出、安良里龍泉寺竹澗師のもとで得度)に依頼している。
公共のため私財を傾け、翁の生家の母家は、登自(下田市)の渡辺家(菓子店 朝日屋)に移り現存しているという。
参考文献
- 町制施行100周年記念誌 郷土の先覚者たち(平成13年2月 松崎町発行)