公開日 2019年01月22日
浄感寺住職 本多正観
青年時代の修行
浄感寺13世を継いだ本多正観は、天明2年(1782年)道部村の鉄砲鍛冶の家に生まれたが、少年の頃出家し浄感寺の養子となった。
正観は学問を好み秀才の評判が高かったが、青年時代安芸国(広島)等をまわり修行した時各地で秀才といわれ、兵庫の大寺院では住職就任を懇望されたが、寺の再建の念願からこれを謝絶して帰郷した。浄感寺は元禄年間の大火で焼け、当時は衰退していたのである。
浄感寺塾を開く
正観が寺塾を開塾したのは文化、文政の頃と思われ、学徳が高かったので多くの門人が教えを受け、寺の過去帳中に筆子、門人、素読の弟子530余人と書いてある。
門人中に那賀に三余塾を開いた土屋三余、下田に出て漢学塾を開いた高柳天城、堂宮彫刻師石田半兵衛、鏝絵の入江長八等がある。
本願寺本廟使で全国行脚
学徳共に優れた正観は、京都本願寺の本廟使(布教僧)を命ぜられ、4年間全国を行脚した。この時使用した本願寺御門跡の木札が残り、表に本願寺御門跡、裏面に築地御坊の印がある。
琉球藺栽培と畳表製造普及
正観は藺草栽培と畳表製造の普及に尽くしたが、正観没後90年に当たる昭和9年(1934年)11月4日、松崎琉球組合が伊那下神社前に「琉球畳表の碑」を建立していて、この時正観の慰霊祭も行われ、この式典に奉呈した農会長清水徳三郎の感謝文によると、「正観は青年時代安芸国(広島)に修行した時、三備(備前、備中、備後、岡山・広島地方)における畳表製造の盛況を視察しその有利な副業であることを思い、修行が終わって帰国の時琉球藺と備後藺の苗を持ち帰り詩作し、同時に求めてきた織機で初めて畳表を製作し、この奨励普及に努め近隣村々まで伝わり次第に隆盛となり、このため今日の松崎表の声価を挙げ副業の王座となった」とある。
文政4年(1821年・正観40歳)刊行の伊豆日記に「松崎村の物産畳表と鰹節」とあるので、正観による浄感表の製造はこの頃行われたものであろう。
昭和9年秋、鶴遊社による正観琉球藺普及の遺徳をたたえた短歌額が浄感寺に残っている。
浄泉寺野木沼經善師の歌に、「おもて織るわざを伝えし法の師の 恵阿まねし松崎の郷」
琉球畳表の碑(昭和9年建立) |
本堂再建と門人の協力
浄感寺は元禄年間の大火で焼失し本尊だけを残したといわれ、正観はこの本堂再建を悲願としていたが、本願寺の命で全国行脚した時江戸、川崎の立派な寺を見て、これを真似て建立したいと思い、浜丁の大工棟梁森富蔵(松崎で有名な大工)に川崎の寺の見取図をとらせ再建した。
棟札によると弘化2年(1845年)12月15日の竣工で、正観はこの年6月21日64歳で没しているが、本堂がほとんど出来た時には病気で戸板に乗せられこの様子を見たという。本堂は棟が高く風当りが強いので、のちに3メートル余り切り下げたと伝えられる。本堂再建に当たり、かつての門人石田半兵衛、入江長八は御札に装飾を施した。
正観13回忌、学者集まる
安政2年(1855年)6月、正観の13回忌が催された時、かつての門人土屋三余(那賀三余塾主)とその友人高田梅岳、平賀蕉斉等の学者が集まって追悼詩を書いている。土屋三余の詩を書いている。土屋三余の詩をわかり易く紹介すると「正観の孫左近は今年2歳になった。気立てよくぼつぼつ物を言うようになって可愛い、そのことを葎渓(正観)尊師の霊に告げたい」というものである。
参考文献
- 町制施行100周年記念誌 郷土の先覚者たち(平成13年2月 松崎町発行)