石田半兵衛(邦秀)

公開日 2019年01月05日

 幕末の堂宮彫刻の名工・石田半兵衛(邦秀)は、松崎町江奈の生まれで、その父先代半兵衛も彫刻師だった。また、半兵衛の長男(小沢一仙)、二男富次郎、4男徳蔵とその長男俊吉も、父とともに彫刻の道に励み、それぞれ伊豆、山梨、神奈川などの神社仏閣に多くの作品を残している。

半兵衛の代表作の一つ「唐獅子」が浄感寺の本堂にある。

浄感寺本堂向拝(松崎町指定文化財)

浄感寺1

 

半兵衛は、推定享和元年(1801年)頃江奈村の屋号札場に生まれ、少年時代浄感寺の本多正観に学んだ。

父半兵衛も宮大工彫刻師であった父から業を学び、更に飛騨高山で小沢流の彫刻を修業した。このため小沢姓を名乗ったと言われ邦秀と号した。

半兵衛はこうや(下田屋前)の福本要蔵の妹よねと結婚し、彫刻師馬次郎、富次郎、徳蔵のほか平太郎、早世した金次郎、喜三郎と娘の6男1女に恵まれ、七福神だと周囲からうらやましがられたという。

 

半兵衛と4男徳蔵 甲州に移る

文久年間始め、甲州(山梨)都留軍郡境村(現都留市境)の名主天野開三の再三の要請で甲州に移ることになった。

天野開三という人物は天野本家と呼ばれ、大地主で事業家でもあり、嘉永6年(1853年)品川台場の築造工事を請け負い、下田武山で大量の石材を切り出していた。また三島近在に多くの土地を持ち(天野村)小作料を取り立て、窮民に資金貸付等で伊豆に出入りしているうち半兵衛邦秀の名声を聞き要請したもので、4男徳蔵と共に甲州へ移った。親子は天野家の一棟を与えられて制作に専念し、生涯甲州に名作を残す端緒となった。

 

境の天神社の彫刻制作

天野屋にはイロハ順の土蔵がいくつもあり、半兵衛親子はこの土蔵にこもって制作に専念し、大量の傑作群は境の天神社に取り付けられ現在都留市の自慢になっている。

私は2回訪れたがその見事な作品に日暮れても立ち去ることを忘れた位であった。作品には「江奈住小沢半兵衛邦秀同枠徳蔵俊秀敬作」の刻銘があった。

天野開山宅も訪ね、当時の父子の刻む姿をしのんだ。

 

半兵衛の子3人名彫刻師

長男馬次郎(信秀、小沢一仙)、次男富次郎(永秀、希道)、4男徳蔵(俊秀)と、父子4人が優れた堂宮彫刻師であった。

 

山梨県に残る父子の名作群

南部町内船寺に徳蔵と父子合作、身延町身延山清正公堂は富次郎、徳蔵と父子合作で町指定文化財。増穂町の馬頭神社、市川大門町の熊野神社、塩山市放光寺安田門、御坂町の桧峰神社は長男一仙が制作している。また三富村那賀都神社は4男徳蔵俊敏秀が10カ年かけた大量の彫刻で飾られている。

御坂町弥願寺には一仙と父子合作、河口湖町白山神社に4男徳蔵俊秀の作品がある。

 

静岡県、神奈川県内の作品

半兵衛邦秀の作品は宇久須神社、妻良の三島神社、同善福寺の厨子(彩色)、下田の稲田寺、同白浜神社は半兵衛父子合作と伝えられている。大川の三島神社と共に大量で見事な作品。

八幡野の木の宮神社据屋台は一仙と父子合作で(彩色)伊東市指定文化財である。修善寺町修善寺に徳蔵俊秀の作品があり、三島大社に富次郎永秀と父の対策、富士市実相寺の半兵衛作品は富士市指定文化財である。

神奈川県真鶴町貴船神社の作品は、竜神と中国の24孝図13点が欄間に制作され完成まで3年半を費やしている。神社の伝えで、気がむけば半月でも仕事を続け、気がむかないとひと月でも酒を飲んでいたといい、名人気質がうかがえ、刻名に「伊豆国那賀郡江奈一粟石田半兵衛邦秀」とあり、真鶴町指定文化財である。

近くは宇久須神社の竜の作品に「豆陽江奈小沢半兵衛邦秀作」と刻名があるが、松崎町内に残る石田半兵衛の名のつく作品には邦秀の署名は全くない。

中村諏訪神社中宮殿の彫刻は繊細で美しく、この他山口の茂山神社、また浄感寺向拝等の作品は半兵衛と江戸の由二郎による。

 諏訪神社中宮殿(松崎町指定文化財)

諏訪神社

 

長男小沢一仙信秀に悲報

一仙は彫刻に優れ、加えて勤王の士でもあった。慶応4年勅許の無いまま東山東官軍鎮撫隊を挙兵し、甲府城に乗り込んだが偽官軍の扱いで首謀者として捕えられ斬首された。弟の平太郎は勘定奉行として参加していたが追放処分で済んだ。

当時南部町内船寺で制作中の半兵衛、徳蔵父子のもとに平太郎が訪れ一仙の悲報を伝えた。父半兵衛にとっても悲しくもまた残酷な知らせであった。

 

半兵衛故郷に帰れず

半兵衛はたびたび江奈村の妻の兄、福本要蔵に書翰を届け福本家に残っている。中に「当年70歳に相成候間余命覚束無く只ひとつの願いは在国にて終り度き事のみ朝夕念じ居り申し候」とあり、故里江奈に帰るのが唯一の夢であった。

しかし長男一仙の偽勅使事件でそれも叶わず、一仙招捕後江奈村名主福本善太郎(久保)のもとへ飛脚から報告があり、名主の注進書留帳に「半兵衛、同人女房、子徳蔵に平太郎除帳」とあり人別帳から消された。

半兵衛は故里を偲びつつ明治4年(1871年)12月甲州で淋しく逝った。禅海寺過去帳に「高堂元昌信士」とある。

 

次男富次郎三島大社に大作

富次郎は父の行を継ぎ狩野派の絵も学び永秀、希道と号した。

安政大地震で倒壊した三島大社の再建に当たり富次郎も彫刻に参加し、拝殿向拝の「天ノ岩戸開き」を中心の彫刻、本殿脇障子の彫刻等精根を傾け制作したが、大社の完成を見ず文久2年8月三島で没し30余歳であった。

造営棟梁平田万之助は「彫刻も名人、人間も偉い」と富次郎を激賞した。明治35年(1902年)刊伊豆勝区松崎案内に「石田希道30有余早世、三島大社意匠多く手がけ」とある。

 

4男徳蔵那賀都神社に大作

父から彫刻を学び俊秀と号した。父と甲州に渡り26歳南都留郡福田藤右衛門の養子となり襲名した。徳蔵は明治初期、東山梨郡三富村の那賀都神社に15年間住み込み参籠し奥の院、舞殿、随神門に大量の傑作を残した。

神社は奥の院の作品保存に1千万円をかけ覆い屋を造成しているが、徳蔵の生涯で最も精魂を打ち込んだ制作であった。

明治35年米国博覧会に日光陽明門の模型を制作出品し高い評価を受けた。時々江奈にも来たようで、大正7年(1918年)3月没し79歳。長男俊吉も彫刻師を継いだ。

 

参考文献

  • 町制施行100周年記念誌 郷土の先覚者たち(平成13年2月 松崎町発行)

お問い合わせ

松崎町役場 企画観光課
住所:〒410-3696 静岡県賀茂郡松崎町宮内301-1 本庁2F
TEL:0558-42-3964
FAX:0558-42-3183