公開日 2018年12月25日
近藤平三郎は、明治10年薬種商を営む近藤家の長男として生まれ、東京帝国大学薬学科を卒業。明治40年にドイツに留学し、その後、東京帝国大学薬学主任教授となり、アルカロイドの研究に大きな足跡を残した。
昭和12年日本薬学会会頭、28年日本学士員会員となり、33年文化勲章を受章した。
生い立ち
明治10年(1877年)、文明の波で松崎も揺れ動いている時に誕生。
平三郎の生家は、松崎中宿通りに現存し、元禄12年(1699年)より生薬業を営んでいた家がらであった。
平三郎の父平八郎は若い頃から東京へ出て、医薬分業の先覚者たらんと、同志と組んで薬の調剤を薬剤師に認めるよう政府に建白書を提出したり、日本薬学会の名誉会員でもあった。平三郎が薬学の道を志す素地はすでにできあがっていた。
平三郎は父の意志で満4歳2カ月の時、松崎小学校へ入学した。下校後、夕食をすませて長谷川校長の部屋に行き、机に向かい合って勉強してから二人で枕を並べるのが日課であった。校長の厳格なしつけと講話で小学生は育った。
4年間の小学校過程を終えて、平三郎は蓮台寺にあった豆南高等小学校へ入学。当時交通機関はなく寮生活で、夜はほの暗いランプの灯の下、寂しくて泣きだす生徒もいたという。算数、国語、歴史、地理、英語、それに養蚕、養鶏もあった。
10歳位になると、父が時々東京へ連れていってくれた。初めの頃は13挺櫓の和船で、のちには父が依田善吾と出資して造った蒸気船「松崎丸」で上京した。銀座のレンガ造りの建物、ガス燈、洋装の婦人…。平三郎は「文明開化」を自分の目で確かめながら、心を膨らませていった。
努力
幼い頃から父親の期待は専ら勉強に向けられていて、平三郎は外で遊ぶことも少なかったという。学校での試験は常に満点をとっていたし、豆南学校でも首席で通した。
父親の希望は「ドイツ語を勉強させたい」ことで、東京神田のドイツ語学校へ入学した。その後、第一高等中学校入学から第一高等学校卒業までを、学校制度の改革もあって、4年という短い期間で終わっている。明治30年(1897年)、東京帝国大学医科薬学科に入学。在学中は成績優秀の特待生で通し、2年生の時陸軍委託生に選ばれた。これは月15円の学費支給、兵役義務は免除され、卒業と同時に陸軍薬剤中尉任官という破格な待遇であった。
東京帝大卒業式では成績優秀で、明治天皇の直前で恩賜の銀時計を拝受した。手渡された瞬間、「感極まるの一語につきる」と本人が書き残している。
父親も子ども達に惜しみなく学費を与えた。東京本郷に家を新築し、お手伝いさんを付けて、平三郎達の世話をさせている。平三郎の東京での約10年間の学費合計が1,585円。平三郎が通った松崎小学校の建築費が1,180円だった。
平三郎31歳の時から4年間、私費でドイツ留学させたのも父親であった。
父子の共同の努力は実った。
近藤平三郎生家
業績
「大正」と改元した頃、平三郎は東大講師、軍医学校教官を兼任しながら、アスピリン・塩酸コカインなどの研究を進めた。折しも第一次世界大戦勃発。外国からの輸入薬品が途絶。国内生産が急がれた。私的研究ができない状況に、平三郎は親友の塩野義三郎(シオノギ薬品の創立者)の資金を受け、東京青山に「乙卯研究所」を設立した。資金にも恵まれて、そこでの研究は隆盛を極め多くの薬学博士を生み、大学や製薬会社へと配属されていった。乙卯研究所で特許権を得た化学的医薬の発明は、20数件にものぼる。
「昭和」になった頃から、研究はアルカロイドに絞られた。アルカロイドとは植物に含まれる窒素の有機化合物の総称で、これらは少量で毒作用や感覚異状を引き起こす。ニコチン・カフェインなどもその種類である。平三郎を始めとする研究所員が、植物からアルカロイドを分離し、その構造式を明らかにしていった。この研究が薬品や麻酔技術を発展させることになる。国内だけでなく、ドイツなどの大学の教科書にも掲載された。
ふるさと松崎
平三郎は時折帰省し、変わらぬ風景や生家をめでて同朋への便りにしている。今は平三郎の希望どおり「松崎の海の見える所」に、平三郎の薬学への道を開いた父平八郎と並んで眠る。
略歴
明治30年 東京帝国医科薬学科入学
明治31年 特待生に選ばれる
明治33年 東京帝大卒業
明治35年 大学副手となる
明治37年 野戦病院付薬剤官として日露戦争に従軍・陸軍一等薬剤官
明治39年 陸軍医学校教官となる。
明治40年 ドイツへ留学
明治41年 ベルリン工科大学で有機化学を専攻
明治45年 東京帝大講師
大正17年 東京薬学主任教授 アルカロイドの研究に着手
昭和4年 薬剤師試験官・日本薬学会名誉会員・外国留学
昭和10年 乙卯研究所開設
昭和12年 日本薬学会会頭
昭和13年 東京帝大名誉教授
昭和14年 日本学術会議委員
昭和18年 日本薬剤師会会長
昭和28年 日本学士院会員
昭和33年 文化勲章受章
昭和38年 死亡(85歳)
参考文献
- 町制施行100周年記念誌 郷土の先覚者たち(平成13年2月 松崎町発行)
- ロマンに生きたふるさとの少年たち(昭和58年4月 松崎町教育委員会発行)