公開日 2018年12月25日
嘉永3年(1850年)10月10日に7代善六の子として誕生。幼名を園助、長じて園と改名。明治20年2月に家督を相続して、8代善六を名乗った。
ぬりや邸
浜丁通り浄泉寺入口の前に、立派な石垣の堤を廻した駐車場がある。ここが南伊豆第一の富豪といわれた「ぬりや」、即ち依田善六の屋敷跡である。
昔出征する兵士を松崎波止場まで送った。幟旗を先頭の行列は、時に大橋(常盤橋)を渡るコースをとった。ぬりやの通り門長屋の手前までくると、塀の中から大きな松がニューと出て、通りの上に枝を広げていた。これが人呼んで「ぬりやの松」であった。もっとも、屋敷の裏側、那賀川に面して松が10本余り、静かな流れに影を落としていた。これを「ぬりやの松」と考えていた人もあるようだが、どちらもぬりや邸内の松だから間違いではない。
絵は明治25年(1892年)、今からちょうど100年前に描かれた「ぬりや」である。この種の絵は誇張されて描かれる場合があるが、本宅・倉・長屋・庭木に至るまで正確に描かれている。
子供のときからぬりやに仕えた植松さん(平成4年死去)が「本邸の庭に立派な五葉松があって、その下に胤平(善六の短歌の師匠)の歌碑がありました」と話されたが、その歌碑も松も見える。
初代宝泉軒(俗名不詳)より8代善六まで、二百数十年栄えたぬりやも、文明開化の波に乗り、西伊豆の指導者として多くの事業を行い、その事業によって家運は傾いた。「栄枯盛衰世のならひ」というが、今ぬりや邸でありし日を偲べるものは、那賀川沿いの片隅にある稲荷神社と、ビャクシンの古木のみである。
ぬりやの資産
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」
庄内平野に5,000町歩(1町歩は約1ヘクタール)とも6,000町歩ともいわれる広大な土地を所有した本間家にあやかりたい気持ちをうたったものである。
松崎の狭い土地に、このような大地主は生まれようもないが、その狭い土地を考慮すると「ぬりや」は、本間家に匹敵する大地主であった。
言い伝えに、ぬりやから隣村に行くとき、他人の土地に入らずに行くことができた。年貢が1,300俵程入ったなどといわれている。
どれほど資産があったか、他人の財産は知るよしもないが、明治23年(町村制施行の翌年)の土地所有は次のようであった。(松崎町内の水田のみ)
松崎 2町4反9畝2歩
宮内 3町0反6畝19歩
江奈 3町6反3畝3歩
伏倉 7町0反0畝13歩
桜田 2町0反7畝9歩
合計18町2反6畝16歩
山林250町3反2歩 と報告されている。
その後、増加したかもしれない。また畑、宅地等を加えると大変な地主で、「他人様の土地云々」の言い伝えは誇張ではない。
試みに当時小作人が地主に納めた年貢を1反歩5俵とすると約910俵になる。岩科地区や中川地区に持つ土地の年貢を加えると1,300俵も、これまた嘘でない。正に豪農である。
ぬりやの宝泉
ぬりやの歴史
ぬりやは江戸時代の初め、大沢の大屋(依田家)から分家した家である。そのため本来大沢屋と称したが、いつの時代か火事を出し、近所一帯を焼いてしまった。新しい屋敷は、二度と火を出さないようにと、本宅から長屋、塀に至るまで漆喰で塗りか固めた。このとき、毎朝ぬりやに通う左官が声をかけられると「今日も塗屋さ」と答えたところから「ぬりや」になったという。
仏の小道に沿った牛原山の北麗に、ぬりやとその分家及び関係者の墓所がある。その中央に並ぶぬりや歴代の墓は苔むし旧家を偲ばせるものがあるが、きらびやかではない。近年まで墓所の入口に、ぬりやの自庵阿弥陀堂(本尊阿弥陀如来)があった。そして堂の手前に、こんこんと湧く清水を湛えた宝泉がある。代々の当主がお茶をたてるときは、この泉の水を用いたという。阿弥陀堂の正式な名称も、この宝泉に因み「宝泉庵」といった。
管理者の許可を得て、歴代の墓を調査してみた。ぬりやの開祖、即ち初代の墓の戒名は「宝泉軒端有了屋居士」、天和2年(1682年)没とあり、残念ながら俗名は刻まれていない。軒号に宝泉を使用しているところをみると、宝泉は当時造られたものであろうか。
2代は俗名善兵衛、3代は佐治兵衛、4代善六、5代善六、6代善太郎、7代善六(墓は意一抱え程の石を置いただけ、善六を名乗ったことは文書で明らか)、8代善六となり、歴代すべてが善六を襲名していないことが判明した。
ぬりやを松崎のぬりやから西伊豆、いや奥伊豆きっての豪農にしたのは、4代の善六であるといわれ、その墓には中興の文字が刻まれている。
善六の生い立ちと業績
善六は幼名を園助といい、7代善六を父に、道部村の旧家奈倉家出の「みな」を母として嘉永3年(1850年)に生まれた。
ぬりやの日常生活は、衣食ともきわめて質素、その中で「正直」を信条に育てられた。
学問は5歳より、那賀の叔父土屋三餘(三餘塾)に学び、成人するや名を園と改め、韮山の江川塾の門をたたき、広く日本、そして世界についても目を開いた。江川担庵が国防のため、農兵を設立するや率先参加、曹長までなったという。
のち家督相続のため松崎に帰り、依田佐二平の妹(みさ)をめとり三女をもうけた。しかし、不幸にしてこの最愛の妻をはじめ、3人の子供を次々に病で失っていった。
失意の続く若い時代に、松崎村や地域の指導者として、次のような公職に就いた。
松崎村(現松崎区)戸長
伊豆国管内養蚕副総代 浦役人
地租改正人総代韮山支庁詰 地租改正御用等
また壮年期には、新しい時代の波に乗り、地域のための事業を次々に起こした。
晩成社の設立 依田一族と共に北海道開拓のため設立、初代社長となる。
駿豆汽船の設立 汽船松崎丸を建造、松崎沼津間に就航
駿河湾汽船の設立 松丸、御浦丸、愛鷹丸等の汽船で、下田沼津間の航路を開く
松崎水力発電会社の設立 仁科川に発電所を建設、戸田村より南伊豆町青野鉱山までの間に電灯をともす。
この間に、沼津市原の旧家の一人娘「小苗」を後妻に迎え、2男1女の子宝に恵まれた。
また、事業・家業に多忙の中、歌を海上胤平に学び、俳句を仲間と楽しむ雅の心を忘れることはなかった。
団体事務所前に残るぬりやの歌碑
善六と駿河湾汽船
突然ダダダダという大音響と共に、体が天井に叩きつけられた。人も荷物も船尾にことげ落ちる。一瞬何が起きたか分からない。入口が天井に見え、海水が奔流となって落ちてきた。正に阿鼻叫喚。
気付いたときは、凍てつく荒波の上に浮いていた。どうして船室から脱出したのかわからない。振り返ると、今まで乗っていた愛鷹丸が船首を真上に、棒立ちになっていた。
恐ろしさと寒さにふるえながら、大きな波を越え、再び振り返ったときには、愛鷹丸の姿はどこにもなかった。
薄れゆく意識の中に、松崎の波止場で、いつまでも手を振る母の顔が浮かんだ。
大正3年(1914年)1月5日午後2時、駿河湾汽船の命運を決する悲劇は、戸田村の舟山沖で起きた。
明治の後期、下田・沼津間の航路は、善六所有の汽船松崎丸によって運行されていた。ところが、日露戦争後、政府の余った汽船を手に入れた東京湾汽船がこの航路に進出してきた。
そのため善六は同志に図って、明治42年(1909年)駿河湾汽船を設立。
松丸 51屯 定員30名
愛鷹丸 55屯 定員35名
御浦丸 99屯 定員67名
を建造してこれに対抗、その結果は採算を度外視した競争となった。
しかし、両社その非を悟り、大正元年運行に協定を結び、一応競争は終わったかに見えたが、内にはその火種を残していた。
この大惨事(死者100余名)も競争の一端ともいえる。先行した愛鷹丸には定員の4倍近い乗客があり、30分遅れて土肥を出港した東京湾汽船の芙蓉丸は空船同様であった。
善六と松崎水力発電
「おーい祢宜ノ畑が見えたぞー」人足達は思わず喜びの声をあげた。
松崎港に陸揚げされた3トンにも余る発電機を前にして、「どうして祢宜ノ畑まで」と思案してから7日目のことであった。
結局特製のソリに乗せて、人力で引くこととなった。大勢の力で引き始めたが、砂地の新浜通り、ソリを滑らせる盤木がめり込み悪戦苦闘。
この様子を見ていた一漁師、「ガグラサンを利用したら」のこの珍発想は思わぬ効を奏した。先々にガグラサンを移動しては固定し、その怪力に頼った。難関の外部坂も、一色渓谷の悪路も、予想を上回る速度で引けたのである。
伊豆に電灯がともされたのは、明治43年からのことであったが、西海岸は大正に入ってもランプの生活だった。
善六は西海岸にも「文明の光を」と、同志に図って大正4年松崎水力発電株式会社を創立。
社長 依田善六
専務取締役 郡谷照一郎
電気技師 渡辺 保
急流仁科川に発電所建設を行った。
第一発電所 字祢宜ノ畑 起工:大正4年9月 使用開始:大正5年5月
松崎小学校の記録に、大正5年9月21日「電気工夫来校 便所・宿直室・小便室に点灯す」
このようにして、松崎町内に電灯が輝いたのは、大正5年9月のことであった。
その後供給地の拡大、需要の増加のため、引き続き
第二発電所 字三房滝 使用開始:大正7年9月
第三発電所 字一色 使用開始:大正9年4月
を建設。こうして地元雲見から戸田村までの広範囲に伝統をともしたのであった。
善六と社会福祉
松崎の生んだ人物の中で、善六を最も魅力のある人物と感ずるのは、巨万の富を惜しげもなく社会福祉に投じたことである。
一般に、「たまればたまる程何とか」というのが凡人の偽らない心であろうか。
善六は国家存亡の危機に、また地域発展のために、或いは近くに火災があれば被害者の救済に、風水害があればその復旧に、子供の教育のためにと、あらゆる機会に寄付を行い、その件数は枚挙にいとまがない。
中でも大正7年における寄付は、その数、その額ともに一際多く、累計は数万円にも達したといわれる。
500円 三浦小 基本金
500円 岩科小 基本金
500円 松崎小 基本金
以下戸田村戸田小学校まで
100円 浅間神社 基本金
100円 伊志夫神社 基本金
100円 諸石神社 基本金
以下戸田村までの各神社
100円 禅宗院 基本金
100円 永禅寺 基本金
以下戸田村井田妙田村まで
当時の100円は現在の100万円にも相当する。それを町内だけでなく、西海岸の村々すべてを対象としたのである。
この寄付行為は何がさせたのか、愛鷹丸の遭難者に対する自責の念からであったか。父善六の厳しい薫陶による博愛の心からか。また大地主「ぬりや」そのものの存在を否定したのか。寄付書に書かれた理由のすべては、「永年の存念により」の一言だけである。
善六の、善六たる所以は、どんな寄付にも、その見返りは一切要求しなかったところにある。
ああ善六逝く
大正9年(1920年)5月27日午後1時、松崎の生んだ大人物、依田善六は永遠の眠りについた。70年の生涯は波乱万丈であった。
世を去る1ケ月前の4月18日、彼の功績に対し藍綬褒章が下賜された。この制度が明治14年に制定されて40年、郡下で3人目の受章であった。ちなみに他の受章者は、緑綬褒章、中川村 依田佐二平(明治25年11月15日)。藍綬褒章 稲取村 田村又吉(明治37年6月7日)である。
緑綬と藍綬に上下区別はなく、その功績分野の違いだけで貴重な受章であった。
その功績を記してみる。
「養蚕殖樹を奨励シ 銀行ヲ儲ケ電気事業ヲ興シ 或ハ海運ノ便ヲ開キ 其ノ他開拓事業ヲ遂行スル等公衆ノ利益ヲ図ル」とある。
彼は若干22歳で初代松崎戸長(以前の名主)となって、足柄県の伊豆国養蚕副総代に任命され、養蚕業の発展に奔走した。また田方の同志と図って、韮山に生産会社(伊豆銀行の前身)を松崎に設けた。電気事業、海運他北海道開拓のため、依田一族と共に晩成社を起し、初代社長となって、彼の富を惜しみなく開拓のために投じたのであった。
彼は事業家であると共に、学問も好んだ。数多く残された和歌のうち、松崎八景の一つ笠野山秋月をうたった歌に
笠野山 さすかげ清し 白玉と 露さえ見ゆる 秋の夜の月
簡重(善六の号)
参考文献
- 町政施行100周年記念誌 郷土の先覚者たち(平成13年2月 松崎町発行)
- 依田善六翁(1975年9月1日発行 著書:廣沢夢人)