土屋三余

公開日 2018年12月18日

三余

松崎が生んだ幕末の漢学者、偉大な教育家。文化12年(1815年)伊豆国那賀郡中村、現在の松崎町那賀の土屋家に生まれた。三余荘ユースホステルがその生家。土屋家は「那賀の大家」と称された名門で、父は伊兵衛安信、母は冬子。三余の本名は行道、のちに述作と改め、通称宗三郎。竹裡閑人、三余の号がある。

祖先は北条氏に仕えた土屋和泉守を初代とし、2代目惣三郎のとき秀吉の小田原城攻めに敗れ、天正18年(1590年)伊豆の那賀に移り住み、江奈から池代にいたる10カ村の名主をつとめた家柄であり、宗三郎(三余)はその12代目にあたる。

弱い農民を救うために

6歳のとき父を、8歳のとき母を亡くして孤児となった宗三郎は、母の実家である道部の斎藤弥左衛門宅に引き取られ、浄感寺の住職本多正観や帰一寺の名僧岳鳳和尚を師として学ぶ。

当時このあたりの27カ村は遠州掛川藩の領地で、江奈陣屋の役人が横暴をきわめていた。善良な農民たちが、この「掛川ざむらい」に苦しめられる有様を見ながら成長した宗三郎は、士農の身分の差別をなくすため農家の青少年を教育し、知徳をみがくことによって、成人のあかつきに武士と対抗させることが大切だ、との信念を持つようになった。

文政12年(1829年)14歳のとき勉学のため江戸に出たが、翌天保元年いったん帰郷。天保2年再び江戸へ。そして高名な神田お玉ケ池の儒者、東條一堂の門に入って漢学を学び、東大の前身・昌平こうの学究と交わったり、和学者大沢赤城について国学、算術、剣法に励み、この赤城塾では勝海舟と知り合い、机を並べて勉学にいそしんだと伝えられている。

数年後、学業を修めた宗三郎は、諸大名に招かれて諸藩の顧問となるなど、江戸における碩学としての名声は次第に高くなった。

激動の時代と人材育成

天保10年(1839年)24歳のとき帰郷して、那賀の熊堂山に竹裡塾を開く。しかし、ここは水の便が悪いためにまもなく旧宅に塾を移す。当初は親戚筋とか近隣の子弟を預かる程度だったが、たちまちその評判が広まり、無料の塾は大繁盛だったという。

このころ松崎・依田家から妻美代子(土屋美代子)を迎える。美代子夫人は文政5年(1822年)生まれ、宗三郎より7歳年下だった。宗三郎は自宅を教室にして講義をつづけるかたわら、ときどき江戸に出かけては激動する天下の情勢を把握し、同時に塩谷宕陰、安井息軒、吉野金陵、島田重礼、平賀蕉斎ら当時のそうそうたる儒学者たち、あるいは南画家富岡鉄斎、のちに天誅組総裁となり十津川事件で割腹した尊攘派の志士松本奎堂などと幅広く交際した。

ところで、嘉永年間にいたり、日本にとっても伊豆にとっても重大な出来事が相次いでおこった。同2年(1849年)にはイギリスの軍艦、同7年にはペリー率いるアメリカ艦隊いわゆる黒船が、下田港を矢つぎばやに訪れて、日本中が騒然となる。

その中で宗三郎は、門下生の清二郎(のちの依田佐二平)を伴って下田へ行き、外人と物々交換をしてその文化に直接ふれようとつとめた。こちらからは日本紙を贈り、外人からは鉛筆、西洋皿、コップ、ビールなどを受け取ったうえ、そんな機会を利用して英語の勉強にも励んだようすで、交換した品々や筆書きで練習した横文字などが、今も土屋家に残っている。

三余のいわれとその信念

宗三郎は常日頃、「士農の差別をなくすためには、”業間の三余”をもって農家の子弟を教育することが必要だ」と説いた。これは、魏の国(古代の中国)の董遇という人が、

読書当以三余 冬者歳之余

夜者日之余  雨者時之余 

と述べたのにちなんだもので、要するに「勉学は農業の合間にせよ。1年のうちで最も余裕にある冬を、1日のうちで一番暇な夜を、そして雨の日を有効に使うべし」というのである。

みずから”三余”と号したのもこれが由来で、その理想とする教育をより広めようと、安政3年(1856年)校舎の建築にとりかかったが、完成後まもなく台風のため全壊。そこで知人たちから拠出金を集めて、再び建築工事にとりかかり、ついに安政6年(1859年)宿願の「三余塾」を開くことができた。ここでも四書五経、日本外史、数学、剣道、柔道などを無料で教え、もっぱら農民のための人材教育に心血を注いだのである。

伊豆各地はもとより、全国津々浦々からこの三余塾の門をたたきに訪れる若者が相次ぎ、門下生700人余を数えた。ここから育った逸材もまた多く、特に明治以降、伊豆の先駆者といわれる人々の大半が、三余塾出身である点は特筆に値しよう。その中には、明治23年帝国議会開設と同時に初の衆議院議員となり、産業、農業、海運、教育と幅広い分野にわたって、地域振興に不滅の功績を残した依田佐二平。その弟で北海道・十勝開拓の偉業をなしとげた依田勉三。三余夫人美代子の実家善兵衛の子で、伊豆に汽船の航路を開き、朝鮮開発に功労のあった依田善六。賀茂那賀郡初代郡長となった大野恒哉。遠洋漁業の先駆者で、石田礼助(元三井物産代表取締役、元国鉄総裁)の父石田房吉。県視学に相当する学区取締となった医師藤野圭二。その弟でウェブスターの辞典を翻訳した藤野賢三。漢学者の鈴木良八の名もある。

多くの逸材を残して

三余塾は万延年間から、文久、元治、慶応へと7年間にわたって続けられたが、三余先生病気のためやむなく塾を閉じ。その後、慶応2年(1866年)2月24日、51歳で亡くなった。戒名は大光院三余紹栄、墓は土屋家3代目の佐野右衛門が建立した西法寺にある。

顕彰碑

西法寺(松崎町那賀302)の境内入口には、明治34年4月、依田佐二平、大野恒哉、石田房吉をはじめ多くの門弟たちが三余の33回忌にあたって建てた「三余土屋先生の碑」がある。

題字は勝海舟。碑文は、旧仙台藩学者の岡千仭(鹿門)。書は、日下部東作(鳴鶴)。

顕彰碑

 

餘塾資料館

昭和58年2月、松崎町那賀の土屋邸内の土蔵に三餘塾料館が開設された。

三餘塾資料館[PDF:246KB]

土屋家

 

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