花の里を歩く 松崎の見どころを探る

公開日 2016年02月05日

観光西海岸の中心として
松崎町は人口1万人余、西伊豆最大の町である。町中のほぼ78%を山林で占め、林業が盛んである反面、松崎,岩地,石部,雲見の4つの湾を持ち、ここでは定置網や刺網をはじめ、マグロやサバの1本釣り、テングサを主とする採草寮が盛んで、年間8億円を越える水揚量を示している。この伝統的な産業に、近年観光産業が加わり、今では伊豆西海岸観光のセンター的な役割を果たすまでになっている。
町の中心は松崎で、港からは沼津、波勝崎を結ぶ連絡船や遊覧船が発着している。今でこそ国道136号線が西海岸を縦走し、自動車に依る交通運搬が主軸となってきているが、道路開通までは、近村の物資の積出しや搬入、人の移出入全てが船便に頼っていたもので、つい近年まで、
「伊豆半島最後の秘境」
などと呼ばれていたものであった。現在でも年間82,000人(昭和51年度調べ)の人々が船を利用しているが、そんほとんどが観光客に変わっているのも時代の流れといえよう。
松崎湾には那賀川と岩科川が流入し、キスの釣り場としてもよく知られている。桟橋から北へ向かうと弓型の砂浜が弁天島まで続き、堤防の後には年輪を重ねた松並木が浜の中途まで続いている。民家が並木のすぐ枝下まで進出しているのが惜しまれるが、松の姿の良さは流石で、
〈松崎〉
の名の由来をみるおもいがする。
砂浜は遠浅で、夏は海水浴場として賑わい、浜の北端にたつ国民宿舎伊豆まつざき荘が、よい足がかりとなっている。昭和39年オープン、同43年には新館(西館)が増設されて、目下は鉄筋コンクリート4階建て。43室で収容定員166名、松崎温泉を引湯する大浴場をもつ伊豆半島指折りの公営宿舎。特に味覚に工夫を凝らしていることで知られ、「弁天鍋」「海草てんぷら」「伊勢エビ定食」など、郷土色豊かな料理を気軽に味わえる宿舎としてファンも多い。季節ごとに地酒,甘夏ミカン,カツオ料理,トコロテン,サザエのつぼ焼き,郷土芸能などの無料サービスを続けているのも、衰えぬ人気の秘密であるに違いない。

町内ひろい歩き
松崎港を中心としてひらけた町並は、歴史の長い港町らしく、細い路地が縦横に入り組み、家屋がびっしりと建てこんでいる。赤や青の屋根をもつ、新しい民家に混じって、懐かしいなまこ壁や土蔵を残す旧家もまだ何軒かは健在で、時の流れに洗われた塗籠の白壁と瓦の黒い色が、美妙なコントラストを見せている。
町の繁華街は江奈浜通りから銀座通りへかけて。松崎町名物の松笠最中の本舗、梅月園もここにあり、最近では長八の竜なども銘菓として人気を高めている。梅月園と並ぶ和菓子の老舗に永楽堂がある。町役場の隣にあり、横道まんじゅう、伊豆の長八などを看板にしている。創業明治六年といい、茶事用の干菓子なども作り、店の一隅に囲炉裏を切った小部屋があって、ここで焼餅やしる粉を食べさせる。明治時代は芝居小屋の持主で、劇場で売るパンを作ったのが菓子屋の始まり、というのも、面白い。当時の藍染め茶碗を、惜気もなく使うところなどにも、老舗のゆたかさがしのばれる。
松崎の"むかし"をしのばせるものはなまこ壁ばかりではない。那賀川河口に残る名倉家なども、松崎温泉の先駆的存在として忘れることはできない。昭和初期のころまで道部ノ湯とか新家ノ湯とも呼ばれて繁盛した湯宿で、眼病に効果を示す湯として、近在の人々によく利用された。現在では湯も枯れて、しもた屋となっている。2階建ての小じんまりした家屋で、腰の高い障子窓には、張り出しの広いぬれ縁が残っている。湯上りの客たちが、火照った身体をこのぬれ縁に運び、川風に肌をなぶらせながら目を細めた姿がほうふつと浮かんでくる。
町の発展と反比例して、衰退していった商売がいくつかある。鍛冶屋、桶屋などもその1つといえる。
宮前橋の近くに住む船津弥七さんは、鍛冶一途に50年農具鍛冶専門にやってきた職人さん。昔は近郷7ヶ村あわせて18軒もあった鍛冶屋が、現在では岩科に1軒、中川に1軒、それに船津さんの3軒になってしまった。
「松崎は林業、炭焼きが盛んな町でね、隅なんか年間十万俵も出荷したほどだった。今じゃ木炭など売れないから、山の木は大きくなるばかり。山が動いてくれなきや、鍛冶屋はあがったりだよ」
と述懐する。山仕事が低迷すれば鉈やヨキなどの入用は減り、せいぜい修理仕事があるくらいのものだ。船鍛冶も仕事がなくなった。かつての松崎港には十艘もの運搬船があって、フル操業したものだが、道路が開通して以来は、物資の運搬方法のほとんどが自動車に変わってしまったのだ。
「ワシとこの商売も、今まで農具をやって来たので、なんとか続いていますが―。全て商売が変わってきたね」
箱型の手押しフイゴで火床を熾しつつ、船津さんが作っている道具は、道路工事用の2mもありそうな大釘抜きであった。床に散らばった鋤や鍬は、まっ白に埃を被っている。
「この仕事も、ワシでお終いだね」
寂しそうに微笑する船津弥七さんであった。
桶屋の森九一さんの店は江奈通りにある。広い作業場には森さんの作ったすし桶、飯びつ、湯桶、手桶の製品や半製品がずらりと並んでいる。大沢温泉ホテルの名物、桶ずし用のミニ桶も森さんの製品。桶作り60年、75歳(昭和54年)とは思えぬかくしゃくとした職人さんだ。ここでも鍛冶屋と同じ現象が起こっていた。
「昔は賀茂からこっちに桶屋が38人もいたもんだが、みんな商売にならなくて、大工に転業しちまったよ」
森さんは釣りが好きなので、松崎を離れられないのだ。
「桶なんてえモノは、生活からはみ出しちゃあどうにもなんねえ」
という通り、軽金属やプラスチック製品が多量に、しかも安価に出まわる現代では、もはや昔通りの手仕事など、
「競争にならねえ」
のである。木曽から材料を仕入れ、念を入れて乾燥させて木取りをする森さんの仕事振りには、自己を曲げて世におもねることを潔しとしない、昔通りの職人気質が脈々と見てとれる。しかし、森さんが別れ際に、
「ワシ一代のことだから、好きなように仕事をしてゆきたい―」
といった言葉が、はからずも船津さんの言葉と同じであったことに、文化の苛酷な一面を見る。〈自分かぎりの手仕事〉に、この吐息に似た述懐には、消えてゆかざるを得ぬ仕事への、深い愛惜が秘められているのであった。
松崎の伝統文化は、なまこ壁や伊豆の長八に代表されるように云云されるが、しかし、こうした市井に埋もれたものにも、伝統は息づいているものなのだ。

江奈弁天島
松崎海岸の北端、国民宿舎伊豆まつざき荘の地続きに江奈弁天島がある。昔は立派な島であったが、昭和42年に、江奈川かんがい排水改良工事のため、それまで伊豆まつざき荘と弁天島の間に流れ込んでいた江奈川河口を、島の北側へ開削したため、地続きとなり、現在では岬状になってしまった。かつては「巨鯛島」と呼ばれた時代もあった通り海岸部は荒磯状で、今でも黒鯛の好漁場。糸をたれる太公望の姿も多い。
島は周囲約200m。峨々とした崖によろわれ、上部にはウバメカシや磯馴れ松が生い繁る自然林で、南画的な風趣をもつ小島である。島の頂部には厳島神社が祀られ、島全体が神社境内。質素な社殿が長い石段の上に建っている。樹間を通して南に松崎港、北に大浜海岸の広い弓浜を振り分けに望むことができる。
磯伝いにはコンクリートで固めた細い遊歩道が開かれていて、潮の飛翔を浴びながら、5分ほどで1巡りしてしまう。素掘りのトンネルなどもあって、短いコースのわりにはスリルに富んだ遊歩道だ。島の植物は保護されているため、採集は禁じられている。
島の姿を楽しむ場合は、富士見彫刻ライン室崎あたりから、松崎海岸を前景として俯瞰するのが1番美しいようである。
弁天島から桟橋へ続く松崎海岸では、夏の海水浴は勿論のこと、4月中旬から9月へかけてはしろギスの投げ釣りができ、初心者や子供でもけっこう釣り上げられる。浜遊びやサイクリングなどもできるので、家族連れなどには1年を通して楽しめる観光ポイントだ。

歴史の散歩道
ナマコ壁の続く民家、伊豆長八の記念館、古社寺、史跡などを一巡りする松崎町で設定した松崎の歴史を訪ねる散歩道である。
コースは、
松崎観光協会―なまこ壁―浄泉寺(野点)―伊那下神社―畳表の碑―長八記念館―松崎町観光協会(所要約1時間30分)
となっていて、もう少し足をのばせる人は、相生堂から文覚上人にまつわる伝説の残る円通寺まで足をのばすとよい。
松崎観光協会の前から歩きはじめる。すぐに左へ入る道が浄泉寺への道で、角から見事ななまこ壁が続いている。
なまこ壁というのは、防火,防湿,保温,防虫,盗難予防などの目的で作られた特種な壁で、四角で平らな瓦を並べ、継ぎ目を白漆喰でカマボコ型に塗り上げる。特に海の潮風などに対して強いところから、伊豆半島の海岸に近いところには多くみられる建物で、松崎ではこのほか岩科の里などにかなりたくさん残っている。時代と共にだんだん少なくなってきている歴史的風物でもあり、完全に姿を消してしまわないうちに、よく保存してもらいたいものの1つである。
この路地を抜けた突きあたりが、浄泉寺である。応永21年(1414)の創建と伝える古刹で、現在残る堂宇は、弘化2年(1845)の再建になるものである。
門前を入るとすぐ左手に見事な宝篋印塔があり、後方に経堂がある。宝篋印塔には、宝篋印陀羅尼経が納められてあり、明治5年(1768)に造られたものである。経堂は、間口、奥行ともに5.7mで、中に納められてある輪蔵は、帰一寺のものと同じく六面からなり、一面に上から下へ2列10個づつ、計60個の書箱が引き出し型でついている。各面の柱の上部に獅子頭の彫刻がとりつけてある。なかなか見事なもので、棟梁彫刻師石田半兵衛の作品と伝えている。
石段を上った正面の本堂の欄間にも、石田半兵衛作の透彫がある。中心に幅5.4m、高さ55cmに竜が彫られ、右側の幅4.5mに9体、左側の幅3.6mに7体の16羅漢像が透し彫りにされている。
庭園は、かつて伊豆の三名園といわれていた見事なものであったが、今は戦時中に防空壕を掘ったりして荒れたままになっている。
その背後には、西国札所33観音を形どったと伝えるたくさんの石仏がみられる。
浄泉寺の隣は、延喜式の古社、伊那下神社である。彦火火出見尊(産業守護)住吉三柱大神(航海守護)を祭神とし、重要文化財指定の松藤双鶴鏡や大久保石見守長安寄進になるという金銅製釣灯籠などを秘蔵している。
境内には、目通り8m、枝張り25m、樹高22mといわれる大イチョウが立っていて、沖いく船がかつて目標にしたものであるという。
境内右手前の石垣の下には、畳表の碑がある。
文政年間(1818~30)に広島に遊学した浄感寺13世正観和尚が、松崎の産業振興のために琉球藺を持ち帰って栽培普及した遺言徳の顕彰感謝の碑である。
駐車場と国道136号をはさんで長八記念館がある。浄感寺の裏側にあたっていて、正面にまわると、庭の片隅に長八の胸像がある。記念館には、狩野派にまなび、鏝絵を芸術にまで高めた長八の作品が集められている。天井の「八方にらみの竜」をはじめ「富嶽愁図」の額、「群鶴図」、欄間には「飛天」がみられる。いずれも鏝1本で仕上げたという優美で繊細なレリーフや彫刻だ。
西洋のフレスコ画と、長八の鏝絵は、どちらも漆喰の上に図絵することは共通である。しかし、フレスコ画が漆喰画と顔料溶液との化学的融合によって、堅固な画面を作り出すのに対し、長八の鏝画は特殊な方法で作り出した下地に特色がある。しっかりした下地を作った上に、色彩を駆使し、鏝で薄肉彫刻を併用して作品を作ってゆくのである。どの作品を見ても、あまりな繊細さに、これが鏝1つで作り上げた絵なのかと、疑ってしまうほどだ。
浄感寺から前の通を右へともどると出発点の松崎町観光協会の事務所。郷土資料館にもなっていて、松崎町の郷土資料が展示されてある。
もう少し歩いてみたい人は、そのほかの見所をまわってみよう。
浄泉寺の那賀川寄り、伏倉への道が分かれていく角には伊那上神社がある。境内に立つ亀甲松は樹齢五百年と伝え、ふたかかえもあるような大きな松の木で、樹皮がまさしく亀の甲を思わせる模様を描いていて、なかなか見事なものである。
神社の脇の道を少し奥に入ったところには伊豆横道の四番、円通寺がある。門前に桜樹数本があって、サクラの寺といわれているところだ。文覚上人の開基と伝え、源頼朝と源氏旗上げの相談したところと伝えている。
岩科川の河口のあたりは道部で、橋を渡って、雲見への道を少し辿ると、左手の少し高みにある岩壁の途中に、古い五輪塔が岩棚のなかに数奇並んでいる。鎌倉時代のものではないかといわれているものだ。
橋のたもとまで戻って、岩科川の左岸ぞいの道を河口近くまで歩くと、古い道部温泉の跡の建物が残っている。河口は対岸に松崎港の桟橋がのびていて、遊覧船などが発着している。那賀川と岩科川の合流する河口は広々として、水もゆったりと流れている。かつて荷を積んで上流から下ってきた川舟は、河口のこのあたりで積荷をおろしたものである。昔は、倉庫がずらりと並んでいたところでもあった。

那賀川・大沢あたり
那賀川にそっては、広々とした畑地の先に桜田、伏倉、建久寺などの集落を望み、南郷,吉田,峰輪,明伏,小杉原と通って、婆沙羅山下の婆沙羅峠の隋道へと登っていく。那賀川と分かれた池代川ぞいには、大沢をへて池代へと登り、大鍋林道となって、長九郎山からのびる稜線の鞍部を越えて湯ヶ野へ抜けて行く。
那賀川にそう集落の主な見所を拾い歩きしてみよう。
まず桜田の里。ツバキの垣根などのある民家の間を入ると、僧古山の開山になるという金剛山群定寺がある。大日如来を本尊とする古寺で、御開帳は60年に1度といわれている。寺の石段の脇に珍しい陽石がある。村の人たちは、安産の神と呼んでいる石である。この寺の境内からは、石器や矢じりなどの発見をみている。
桜田から那賀のほとりへ出て東へ向かうと建久寺。門前のT字路には、文字道祖神があり、境内には、陽根、性神金精様、あるいは幸の神道祖神など、いろいろに呼ばれる建久寺のさいの神がある。陰陽二根の形象を象徴している金勢大明神で、古代からの陰陽崇拝の信仰の風習の遺風である。
道祖神は、
〈サエノカミ〉
と呼ばれ、猿田彦命に付会したり、種々の説があるが、概ね外から入ってくる疫神悪霊などを村境や峠などで防ぎ止める意味を込めて置かれてある道の神である
平安期の頃には、この信仰の形が既にあったと伝えられているほど古い信仰形態をもっている。
道祖神の神体が、陰陽形をなす自然石などで作られてあるのは、原始時代の陰陽崇拝を習合して行ったもので、自然石、あるいは人口の陰陽石、さらには木製などで性器を象徴して塞の神としてまつられてある。信州や相州、甲州、上州などに見られる双体道祖神なども、その流れの1つとして考えていいものであろう。
松崎は、雲見の女陰岩が、波勝崎への遊覧船から望まれて、弥栄(いやさか)さまといわれ、名物の1つになっているほか、八木山の男根岩、陰門石、峰の陽根石棒、中村の男根石棒、山口の陽根石棒、旧松崎の縄かけ金精、金精明神などに桜田、建久寺などのそれが知られている。
吉田にある安養山吉田守は、寂しげな小さな寺であるが、修禅寺に幽閉されたあと、北条氏の手の者によって殺された源頼家の冥福を祈って、北条政子が建立した古寺と伝えている。『伊豆志』によると、
「尼将軍頼家郷菩提のため仏工運慶に命じて七仏を作らしめ、当寺を草創して像を安置す」
と記されてある。本尊の阿弥陀如来像は、60cmの高さのもので、坐像である。
表通りの三余荘ユースホステルの手前を北側に入ったところには、伊豆横道の三番西法寺がある。境内の真ん中に、直径1mもありそうなびやくしんが大きく根を張っている。無住の寺で、聖観音立像が本尊にまつられている。
吉田の先の船田には、伊豆三名園の1つといわれる見事な庭園を持った帰一寺がある。ここは伊豆横道の二番寺になっている。中国の名僧一山一寧によって正安3年(1301)に開かれたと伝える古寺で、山門からまわりを巡るなまこ壁の塀と住職愛育の岩ヒバの石垣が見事だ。帰一寺の近くにはカーネーションなどの季節の花が狩れる花狩り園もある。
船田から北奥へと入ると門野の里。その山の奥にある宝蔵院には、約180体も並ぶという石仏群がある。大同3年(808)に弘法太子によって開かれたと伝える古刹で、伊豆横道の七番寺になっている。杉木立の中にひっそりとねむる幽幻な感じの石仏の寺で、船田から歩いて約2時間の道のりである。
さて、再び那賀川畔へ戻って、中川小学校の中川三聖之碑をみて大沢温泉入口から左へ入ると大沢温泉である。
大沢の入口の大沢橋のたもとには、古く那賀川を木炭を積んで下った川舟の発着場跡がある。
道路が開通する以前は、貨物の運送は、川舟にたよっていた。川舟は「平田」と呼ばれる舟底が平らになった舟で、全長8m、幅1.7m前後で、木炭を水量によって50俵から100俵も積んで下った。
船頭が履いた川舟草履は、長さ13cm、幅9cmの独特のもので、つま先に力を入れる作業をするため、つま先だけの草履で、「あしなか」に似たようなものであった。
大沢発着場に倉庫があり、松崎の大橋の下の倉庫まで舟で運んだものであるといい、明治40年前後まで続いていたという。明治40年に松崎街道開通をみて、その後は馬力によって運送されるようになり、川舟も衰退していった。
大沢温泉は、大沢温泉ホテルをはじめ、那賀川の対岸に大沢荘、少し上流に新居屋旅館、湯ノ瀬旅館などがあり、そのほか民宿が数軒と、新居屋旅館のそばに露天風呂がある。含重曹芒石膏泉の湯は、美肌作用の高い温泉として、古くから女性に人気の高いところである。
温泉街の続く川のほとりは桜の樹が並木をつくっていて、3月下旬ころから4月中旬にかけてが花の見ごろ。やがて花吹雪の川畔をつくる。
大沢の奥は、原住民が山野を切り開いて最初に住んだところと伝える池代である。
二百数十年前に、池代を大洪水がおそった。
山がせまっているので、大雨によって、一気に谷があふれたものであろう。家や人やお堂の薬師さんも全て流された。薬師さんは船田河原で、拾い上げられて現在は船田にまつられているという。松崎まで流された49人の遺体は、無縁堂に埋葬された。その時の惨状は、それこそ、
〈目をおおわんばかり〉
の酷いものであったと伝えている。
そんな歴史を秘めた池代ではあるが、今はワサビの栽培が大きなウェイトを占める、長閑な山村風景をみせている。
池代からは長九郎山への登山路が分かれている。
湯ヶ野へ越える大鍋林道も、ワサビ畑などを見ながら、樹林のなかの閑寂な雰囲気のあふれた趣のある道が続いている。

旧岩科学校校舎と岩科の里
レンゲ畑の一面に広がった岩科川ぞいの道を奥へと辿ると農協と郵便局がある。橋を渡って右へ入っていくと、なまこ壁の連なる民家の間の道を登って長者ヶ原へのハイキングコースが続く。旧岩科学校校舎は左手へ入った畑地の先にある。
旧岩科学校校舎は、岩科小学校運動場の右手にある。正面にバルコニーのついた建物で、洋風の手すりとなまこ壁をまわりに巡らし、社寺風建築を取り入れた伊豆地区では最古の学校である。
明治12年4月に着工、翌13年9月に完成をみた洋風デザインのしゃれた学校で、同じようなスタイルの学校としては、信州の佐久市にある中込学校と、松本の開智学校が知られている。
玄関正面にかかげられてある「岩科学校」の扁額は、時の太政大臣、三条実美の書である。校舎は昭和50年に国の重要文化財に指定されている。
旧岩科学校校舎建造の由来は、明治12年当時、村内の教育信仰熱が大変に高く、天然寺の廃院であった天養院、常光院などの仮教場では狭くなり、校舎新築用としてあった村有林が当時の金で2,000円に売れる見通しがたったところから、新校舎の建築計画が具体化した。
そこで仮教場の跡と、それに接する田畑を買収し、780坪を敷地として明治12年4月に着工されたものである。
建築に先だって、当時の戸長佐藤源吉は、岩科村の大工高木久五郎(当時37歳)、菊池丑太郎(同39歳)の両人を函南、三島、沼津学校の調査に派遣し、それらを十分に参考にした上で設計、建築に着手したものであった。
明治13年9月25日に校舎は落成した。当時の金で、建築費は2,630円66銭3厘で、そのうち村民の寄付金は290円であった。
建築にあたって、郷土の名工、入江長八に依頼して、階上客室の四周の欄間に千羽鶴を鏝絵でほどこした。床の間は太陽を表現して紅の壁、脇床には緑を配して松を表現し、日の出を目指して飛翔する鶴の姿は、1羽1羽形が変わって作られている。
長八66歳のときの作品で、現在、県の重要文化財に指定されている。
旧岩科学校校舎に接して天然寺がある。
入口の山門にかかっている額には「岩科山」と記されている。『増訂豆州志稿』では稲荷山天然寺となっているが、『賀茂郡寺院明細帳』では岩科山と記されている。
現在は岩科山を山号にしている。応仁2年の創立と伝え、岩科の豪族、渡辺一族の菩提寺として知られている。数多くの古文書を残すと伝え、大きな伽藍、庭園ともになかなか風格のある寺である。
岩科川を渡って長者ヶ原への登山道が分かれていくあたりには、ほぼ完全に近いなまこ壁の民家が多数残っていて、細い路地などを巡って歩くのに好適なところだ。民家の庭先には、鶏が放し飼いにされ、コッコッとエサをついばみながら、自由に飛びまわっている風景など、まことに長閑な田園風景が残されている。民宿をやっている家もある。普音寺、常在寺などの小さな寺もある。
岩科川に沿った道を辿ると、次第に山間となり、石垣などの美しい民家などが点在し、平家落人里の伝説の残る八木山を経て蛇石峠へと登って行く。

三浦遊歩道―岩地・石部・雲見―
富士見彫刻ラインの続く岩地、石部、雲見、の三つの浜を古くから三浦(さんぽ)といい、この3つの浜を結んで遊歩道がつくられている。
コースは、
萩谷浜―岩地海岸―岩地峠―石部神社―黒崎展望台―三競展望台―マーガレット畑―赤井浜―雲見(所要約3時間)。
コースの途中には展望台2ヶ所、休憩舎1棟などがあり、ツワブキの群生や、ヤマザクラの林、マーガレット畑など、シーズンの花木が多く、雄大な駿河湾の海を眺めながらのんびりしたハイキングが楽しめる。
富士山を右手後方に望みながら行く富士見彫刻ラインの室崎を過ぎると岩地の漁村を囲うように突き出した萩谷崎。トンネルを抜けたところでバスを降りて、これから三浦遊歩道を雲見まで歩くとよい。
マーガレット,キンギョソウ,スイセンなどの畑のひろがる丘の上から望むと岩地の集落は段々畑の石垣の下方の浜にずらり軒を並べていて、美しい眺めをみせる。
浜へ下りて行くと、長磯石の石垣が浜沿いの民家の土台になっていて、大変美しい風景をみせている。
長磯石は丈夫で、細工がしやすく、昔から屋敷の垣や段々畑の石垣に使われてきた。港の右側の長磯から切り出されるのでこの名がある。徳川時代には江戸へ切り出されていたという。
浜の右手の方がゴウド、左手のほうがコラウマ(小裏浜)と呼ばれている、真ん中に岩地川が流れ込み、少しコラウマ寄りの浜に若山牧水の歌碑がたっている。
「嫁は岩地からもらえ、嫁にはやるな」
と、昔からいわれているそうだが、岩地の女はそれほど働き者で、また仕事はキツイというわけだ。
「主人は船で沖へ、妻は畑仕事へ」
というわけで、花の栽培も大変盛んだ。最近では岩地温泉の湧出もみて、民宿に引湯されて人気を得ている。
岩地峠へ登って行く遊歩道のあたりは、マーガレット畑が広がり、2月上旬から4月上旬あたりまで一面に白い花で埋まる。そのほかキンギョソウ、スイセンなどもそれぞれシーズンに栽培され、可憐な花を咲かせる。
岩地峠の先には休憩舎があり、下っていくと石部である。
岩地とともに夏は海水浴客で大賑わいをみせるところで、民宿街が村の真ん中を流れる山道川の周辺にびっしりと並んでいる。
民宿外の奥のいでゆ荘には大露天風呂があって、どんぶら湯と呼ばれている。どんぶらとは深い淵のことをいい、婦人が入ると病気にたいへん効果があると伝えている。石部温泉は浜にも大露天風呂があり、夏は海水着のまま入浴を楽しむ観光客でにぎやかだ。
雲見へ続く遊歩道は民宿街の中ほどにある石部神社のかたわらから登っている。
急な登りを1歩1歩登って行くと、展望台に出て、岩地の萩谷崎ごしに堂ヶ島の奇勝や田子島、そして遠く富士山まで望まれる。ここは黒崎のちょうど背後にあたるあたりだ。もう1つの展望台を過ぎると下りになって雲見の石切場の跡に出る。廃屋になった建物の脇へ石段で下ると、古い石仏などが捨てられたように散乱している。
以前共同浴場と露天風呂のあった雲見温泉の源泉が湧出している赤井浜を下方に望み、道路のかたわらには、新しくなった雲見温泉の宿をみて、遊歩道はもう一度山道へ入る。小さな鞍部を越えて下りつくと雲見の温泉、民宿街である。
海水浴場の砂浜の上をマーガレットラインの自動車道が通り、観光船発着所の桟橋の上に、雲見浅間が大きな岩壁をみせてそそり立っている。
海水浴場の砂浜のまんなかに流れ込む大田川の両岸には、雲見温泉の旅館と民宿がびっしりと並び、橋の上から眺めると、ちょっとした温泉街をみせている。
雲見の湾口には、牛付岩といわれる大きな岩が浮かんでいる。2つに割れていて、シメナワが張ってあり、左手の大きい方の岩の上には赤い鳥居が立っている。
マーガレットラインへ続いて行く道を行くと、ツツジやサルスベリ、サツキの植え込みなどがある花の公園で、さらに狭まった谷のおくには民宿街が連なっている。
右手にそびえる雲見浅間の頂上には浅間神社があり、展望台になっている。雲見浅間の伝説については別項を参照のこと。

長九郎山
松崎町の最奥にそびえる長九郎山(995.7m)は、天城山脈の支稜の一峰でもあって、シャクナゲの見事な山としても知られている。山頂からの展望も、天城の深い山々をはじめ、駿河湾の美しい海の景観など、見事なものがある。
シャクナゲは五月下旬から花をつけはじめ、六月上旬が最も見事だ。
訪山のコースは大沢温泉から長九郎経路を登るもの、池代から硫黄川にそった林道を辿るものなどがある。一般向のコースは池代からのもので、登り約4時間40分。
池代で大鍋林道をへて湯ヶ野へ抜ける道を見送って、硫黄川にそった道を北へ向かう。硫黄川は持草川と記されている地図もある。車の入る道はやがて山道と変わり、別当沢にそった白川経路を分け、山椒沢を左手に見送ると、やがて右へ山腹をからんで行く大鍋経路の古い道を分ける。ほとんどが歩かれないとみて、あまり定かではない道だ。この先で大沢温泉から登ってきて、内野史ヶ原(815.7m)の下で山腹を巻くように分かれてきた道といっしょになり、シャクナゲの多い山腹を登りつめると長九郎山の東の肩へ出る。長九郎山の三等三角点と展望台のヤグラのある頂上は左へひと登りである。
大沢温泉からの登路は、最近あまり歩かれないとみえて、かなり荒れているところが多いから、山なれた人向きのコースだ。
登山コースを示す案内板のたつ大沢温泉登山口からすぐ古い小橋を渡って登りはじめると、指導標がある。2つに分かれる右の道をとって、草のおおう歩きにくい道を登って行くと、指導標をみて草原帯の尾根上へ出る。
カヤトの原となり、内野史ヶ原を右に巻き、樹林帯の中を登って、アセビやツガの深い尾根に出る。紅ドウダンツツジの多い尾根を登りつめると、長九郎上の頂山に達する。大沢温泉から約3時間30分。下りは約2時間のコースである。

大峠・長者ヶ原
粟野長者の伝説の残る長者ヶ原は、春のツツジ、秋のハギが美しい広大な草原である。松崎町の南に広がっていて、標高500mを前後する高原で、草原と潅木の続く間には、5月下旬から6月中旬にかけて、ツツジがピンクの花を点々と咲かせ、まことに長閑な高原の景観をみせる。
岩科と蛇石を結ぶ大峠は、長者ヶ原の東のはずれを越えていて、標高は470.2m。雑木と雑草におおわれた小さな鞍部で、長者ヶ原とともに、伊豆半島の忘れ去られた一角になっている。
大峠、長者ヶ原のハイキングは、岩科の山口から入る。ナマコ壁の土蔵の連なる民家の間を抜け、段々畑ならぬ段々田んぼの間の道を登って行く。背後に岩科川ぞいの里が広く開け、広葉樹林のゆるい登りの道は、やがて松林に入り、窪状になった峠を登りつめる大峠である。
「自然を大切にしょう」
と記された看板のたつ大峠は、忘れられた小さな鞍部だ。右へ続く尾根上のしっかりした道が長者ヶ原へのものである。入るとすぐ芝生状の草原になり、いかにも長者ヶ原の名にふさわしいなだらかな牧歌的風情をみせる大草地である。ゴミ1つ落ちていない山は、たいへん心地よい。北東に三角形のヤグラが望まれる。520.3mの三角点のあるピークだ。
いったん大峠へもどり細々とした踏跡をたどる。樹林のなかの道を登り、ヤブまじりの踏跡を求めて頂上に達する。潅木と雑草帯で遠くから見た目ほどのどかな頂上ではない。頂上のちょっと手前あたりからは、岩科川の河口に開けた松崎の港あたりの風景が望まれる。
下山は大峠からふたたび岩科へもどる。所要時間は、岩科から大峠まで登り約2時間、下り約1時間10分。

松崎町の温泉群
松崎の町内には、港の周辺の松崎温泉をはじめ、岩地温泉、石部温泉、雲見温泉などが海岸ぞいに点在し、那賀川の奥には大沢温泉があって、1つの町内で5つの温泉を持っているのは、温泉天国の伊豆半島でも、ちょっと類をみないものでもある。これらを総称して松崎温泉郷といっている。
* 松崎温泉
弁天島と松崎港の間に広がった松崎町の中心街の温泉。国民宿舎伊豆まつざき荘をはじめ各旅館、民宿などすべてに引湯されている。
〈泉質〉含石膏芒硝泉、61.2℃
〈浴用適応症〉リューマチ性疾患、痛風、神経痛、創傷、慢性皮膚病、火傷、じん麻疹。
〈飲用適応症〉常習便秘、肥満症、痔疾、じん麻疹、高血圧、動脈硬化症、胆石症、糖尿病。
* 岩地温泉
段々畑の露地栽培のお花畑が美しい民宿村で、冬のキミナゴ、春のイワシなどの地曳網の風景などがみられる。浜に上げた古い舟に湯を入れた大漁温泉風呂は夏の名物にもなっている。
〈泉質〉含塩化土類食塩泉、67℃。
〈浴用適応症〉リューマチ、運動障害、創傷、慢性湿疹、虚弱体質、女性性器慢性炎症、月経不全、更年期障害。
〈飲用適応症〉慢性消化器疾患、便秘。
* 石部温泉
山道川にそった民宿街の全戸に温泉が引かれ、海岸と、奥のいで湯荘に露天風呂がある。
〈泉質〉含塩化土類食塩泉、62℃。
〈浴用適応症〉神経痛、リューマチ、切傷、卵巣機能不全症、更年期障害、月経不全。
〈飲用適応症〉慢性消化器疾患、慢性便秘。
* 雲見温泉
三浦のうちでは最も古くから温泉の湧出をみていたところで、旅館、民宿の数も多い。大田川のまわりに宿はかたまっていて、海の幸を豊富に味わわせてくれる。
〈泉質〉含塩化土類食塩泉、41℃。
〈浴用適応症〉リューマチ、運動障害、神経痛、腰痛、創傷、虚弱体質、婦人病。
〈飲用適応症〉便秘、慢性消化器疾患。
* 大沢温泉
那賀川(池代川)のほとりに湧く静かな温泉場だ。露天風呂がある。皮膚をなめらかにするところから〝化粧ノ湯〟の異名をもつ。
〈泉質〉含重曹芒硝石石膏泉、49℃。
〈浴用適応症〉皮膚病、火傷、創傷、神経痛、リューマチ、痛風、じん麻疹。
〈飲用適応症〉高血圧、胆石、便秘、痔疾、動脈硬化症。
そのほか岩科にも温泉の湧出があり、一部民宿に引湯されているが、湧出量が少ないため、活用されていない。
道部に古くあった道部温泉は、「新屋(にいや)ノ湯」といわれ、目に効く温泉として、土地の古老などには使用されていた話が聞けたが、現在は使われていない。昭和の始め頃まではあったようである。

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