花の里の3つの玄関口

公開日 2016年02月04日

松崎へ入っていく道は、海路のほかに、3つの大きなルートがある。すなわち、
1は、下田から婆沙羅峠を越えて入る道
2は、土肥町から西海岸を南下してくる国道136号線利用。
3は、下田から南伊豆町を経て、南伊豆マーガレットライン経由の道。
の3本である。そのほか蛇石峠から岩科へ、小鍋から大鍋峠を越える大鍋林道、湯ヶ島温泉から仁科峠を越えて、仁科から松崎へ入るものなどいくつか上げられるが、幹線は右の3本である。
昭和53年5月に、北海道の帯広と姉妹都市の提携がなって、それを記念し、松崎町へ入ってくる3つの玄関口に、記念の植樹をし、四季の花をいっぱいに植えて、花の公園に持っていくように努力している。
帯広のある十勝は、松崎にとっては大変因縁浅からぬものがある土地だ。嘉永6年、大沢の依田家に生を受けた依田勉三は、慶応義塾に学んだあと、下田北高校で日本外史を教えていたが、広く天下に活動の地を見い出したいという青雲の志にもえ、明治14年、単身北海道におもむき、十勝川河口の広大な原野に目をつけた。
視察から帰ってのち、一族に計って「晩成社」を設立した。
「どんなに長い年月をかけても、必ず最後には成功してみせる」という意志が、この名に込められていた。
「つらつら、全道を観察するに、周囲800里、沃野渺茫として極まりなきも人口僅かに20万・・・而して他の7~8州は実に無人の地なり・・・諸君幸いに本社の微衷を理解し、協力賛成あらん事を」
晩成社の規約として、設立の精神を述べ、人々に呼びかけた彼の一文は、意気盛んな明治人の一面を顕わしてあまりある。
明治16年3月、男16人、その妻9人、幼児2人の計27人からなる一行は、松崎町を後にして5月には十勝川上流オベリベリに着き、6月3日に、酋長モチャロクの家を借りて、親睦会が持たれた。
いよいよ開墾が進められることになったが、暖かい伊豆では想像もできなかった冬の霜害と寒気、夏の蚊とブヨの襲来、そのほか筆舌にはつくしがたい困難が次々と襲って来た。
数年が過ぎた。一向に事態は好転する気配がない。明治30年、移住者を全国的に再募集し、大豆の成功を機に、澱粉工場,缶詰工場,製材所,乳酪工場と作ったが、後に勉三が、
「何もかも10年早過ぎた」
と、述懐しているように、事業の最大の柱ともなる道路の開拓に、それからさらに10年を待たなければならなかったのである。
勉三は、十勝川の河口付近をのぞくと、ほとんど無人の荒野であったオベリベリの一帯を、語音とあわせて「帯広」と名づけた。
思えば今日の帯広市繁栄のもとは、わずか20余名の伊豆出身開拓者によって開かれたものであった。
勉三は大正14年に72歳で生涯を閉じるが、晩成社は、その後、昭和17年まで続いたのである。
歳月経て、昭和の今日、松崎は帯広と新たに姉妹都市の提携を結び、花とロマンの里にふさわしい記念植樹と花の公園を設置、松崎の玄関口を飾ることになったのは、喜ばしいことである。と共に、さらに充実した花の広場、憩いの場所とし、祖先のフロンティア精神継承のよりどころとして育成していきたいものである。

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