時代の流れにせまられる転換

公開日 2016年02月04日

那賀川のほとりには、昔から鍛冶職がかたまっていた。
「トンテンカン、トンテンカン」
朝から夜遅くまで、歌うようなツチの響きが流れていた。
松崎の風物誌の1つであった。
それも今はただ1軒を残すのみで、ツチの音も消えがちである。
かつて松崎は造船が盛んであった。
昔、この地へは猪名部族が新羅から漂流して住みついたという伝説が残っている。伊那下神社は、猪名部族の守護神であったという。
猪名部族は大陸から造船の技術を持ってきた。
それが今日まで延々と伝えてきている伝承技術であると言われる。
その流れをくんで、松崎から伊豆西海岸各地にわたって、造船をはじめ、大工、佐官、鍛冶職、桶職など、工人、職人が多かった。後世に名を残した工人も数多い。
造船が盛んであった頃の松崎には、したがって鍛冶も大変盛んであった。
いま1軒だけ残る那賀川のほとりの船津鍛冶屋で聞くと、
「昔は、7ヶ町村で、18軒もあったけど、もうかんねえ仕事だからね。いまでは、松崎の町中では、岩科に1軒、中川に1軒、それにうちだけさ」
昔は盛んだったよと弥七さんは目を細めた。
造船が下火になり、山林仕事、炭焼き関係などの道具が主体になったが、その炭も需要の減退から新しい用具の注文も少なくなり、したがって鍛冶の仕事も、
「さっぱり駄目になってしまった」
ということになる。
一頃は、ずらり軒を並べていた鍛冶屋さんも、1軒減り、2軒減りして、
〈昔ながらの手仕事の技術〉
を継ぐ人も早晩絶えようとしている。
時代の流れである。
時代の流れは、1人鍛冶の商売だけでない。松崎の町の産業そのものも、大きな転換を迫られたのであった。
松崎は古くから木炭が産業の主体を占めていた。一頃は、旧岩科村で木炭生産が20万俵を数え、松崎全体で約35万俵の産出をうたい、木炭王国の盛名を誇っていた。
漁業を覗くと、兼業農家にとっては、
〈唯一の現金収入〉
とまでいわれるほど、木炭の存在は大きなものがあった。
昭和30年代に入って、弱電関係、家電用品の発達などは、木炭産業に大きな打撃を与え、休息に斜陽化へと追い込まれて行くことになるが、国の林野行政も、松、杉などの植林方向に力を入れる方針などにより、雑木林は大幅に減少をみた。
町の主力産業であった木炭生産、林業は急速に衰退をみることになる。
木炭に関連していた様々な職業も、当然のように、この流れに飲み込まれることを避けることはできなかったものである。
職種の減少、不振は、町の産業、生活にも大きな影響を及ぼした。
働く場所を失った若い人たちは、都会へと流出して行く。
この頃の社会情勢も、地方から中央への指向が強かった。都会へ出て行くのは、若者にとっては憧れであるとともに、1種の、
〈はやり病〉
みたいなものといえる、当時流行の世相でもあった。
松崎のじりじりと過疎化の減少をみせ始めていた。
これを食い止めなければならない。
木炭と共に、それまで松崎の産業を支えてきたものに漁業があった。
遠洋、近海ともに盛んで、港の魚市場は、早朝からにぎやかなセリの掛け声があふれ、松崎の風物詩の1つにもあげられるほどのものであるが、近年は、その市の風景も心なしか淋しさを増してきた。漁獲量は、一頃に比べるとぐんと落ちているのだ。
松崎は、これらに代わるべき大きな産業の開発にせまれていた。

お問い合わせ

松崎町役場 企画観光課
住所:〒410-3696 静岡県賀茂郡松崎町宮内301-1 本庁2F
TEL:0558-42-3964
FAX:0558-42-3183