歴史の輪廻をかすめる軌跡

公開日 2016年02月04日

歴史の流れは休みなくまわって行く。
鎌倉における北条執権政治は、後醍醐天皇の時代に入ってようやく陰りをみせ、急速に滅亡への道を歩きはじめた。
元弘3年(1333)、隠岐を脱出した後醍醐天皇を奉じ、丹波に足利尊氏が挙兵。ついで5月には、稲村ヶ崎を渡って鎌倉に攻め入った新田義貞の軍によって、北条高時一族は自刃し、ここに北条氏は滅亡する。
幕府は京都へ移り、室町時代となるが、足利尊氏の乱によって南北朝両立の時代に入っていく。
後村上天皇の正平4年(1349)10月、足利尊氏、高師直らの強請によって、時の関東官僚であった上杉重能、畠山直宗らを越前に流し、尊氏の子基氏を関東管領として下京させる。基氏はそのとき10歳であったといわれる。
このころ伊豆の南部では、
田子小松城主  山本飛騨守
中立石城主   小沢隼人正
松崎沢谷城主  渡辺伊予守
雲見上ノ山城主 高橋丹後守
青野麾原城主  鈴木大和守
見作堤坂城主  進士美濃守
三根金原城主  笹本豊後守
本郷氏島城主  志水長門守
月崎池原城主  御簾日向守
長津呂白水城主 御簾三河守
などの勢力分布が古書に見えている。
中世は破壊の時代であるとともに、創建の時代でもあった。
歴史は、秩序の破壊と構築の繰り返しであると、ある作家は言っている。それは人間の願望を最も端的に表わしているのである。
破壊の道をどんどん歩く中世にあって、一方では新しい秩序の構築がすすめられて行った。
政治には、〈待ち〉が必要であると古くからいわれている。
政治にかぎらない。最後の勝利を得るものは、じっと〈待つ〉ことのできる人だ。古くは徳川家康が、近くは佐藤栄作、大平正芳に代表されるように、〈待ち〉の強い人は、最後に必ず勝ちを納めている。
このころ、時節の到来をじっと待っていた風雲児があった。
駿河に一大勢力を誇っていた今川氏に身を寄せる伊勢新九郎、のちの北条早雲である。
伊勢新九郎長氏(氏茂ともいった)の全半生はあまり詳かではない。
今川氏は、文明10年(1478)のころ、治部大輔義忠が首長であったが、これが土民に襲われて殺された後、後継者を巡って内紛が起こった。それに乗じて伊勢新九郎は今川家麾下の大名にのし上がって行く。
八幡山城から石脇城などをあずかったあと、沼津にある興国寺城を預かることになってから、新九郎の目は己ら伊豆へと向けられて行った。
まず目をつけたのは中伊豆の韮山である。
韮山は鎌倉幕府の実力者であった北条氏の本拠地である。
狩野川畔の掘越には、
〈掘越公方〉
と呼ばれた足利政知がいた。中央では足利将軍は、政権力がすっかり弱まっていて、名目ばかりの将軍と化しつつあった。足利政知は将軍義政の弟である。
このころ韮山城に北条氏がいた。鎌倉執権職だった北条氏と関係があるのかどうかは詳かでない。新九郎はこの北条の名跡を手に入れて、北条氏を名乗ることを企てた。北条氏は没したあと、その未亡人に巧妙に取り入って、妻にしたとも、側室にしたともいわれている。
掘越公方は、政知の死後、その子茶々丸が公方の座につくが、その間におさだまりの家督相続の争いがあり、茶々丸は狂気の若君の誹りを受けている。
こうした動きを新九郎はじっとみつめていた。時機到来である。
万全の計画をねった新九郎は、500の軍勢を動員して、大船10艘に分乗、清水浦から未明に出発、駿河湾を下って、昼頃に伊豆西海岸の松崎、西原、田子、あられなどに上陸した。『北条五代記』に記される西原は、現在の仁科であり、あられは、安良里を指している。
沿岸の漁民たちは驚きあわてたであろうことは想像にかたくない。
おびただしい旗幟をあげ、甲冑のものものしい軍勢が、大船十艘で押し寄せてきたものである。
「すわ、海賊の襲来か・・・」
あわてふためいた漁師や住民たちは、女子供の手を引いて、家財道具も打ち捨てたまま山の奥、谷の奥へと逃れ隠れた。
しかし、新九郎(早雲)の軍勢は、軍規が厳しい。土民、住民に害を加えることは厳に禁止されている。船を下りた軍勢は、いたずらにさわぐことなく、てきぱきと舟道具を陸へ上げ、苫ふきに陣をはり、三カ条の禁札を所々に立てた。早雲の巧みな人心撫工作の1つである。
1.明(空)家に入り、諸道具に手を掛る事
2.1銭に当る物何にても取候事
3.伊豆国中の侍、並に土民に至るまで、住処を去る事
右の条々堅く停止せしめ、若違犯の輩是あるに於ては、稼穡(農事)を踏み、在家を放火すべき者也。
掘越御所は、早雲の襲撃に防戦のすべもなく崩れ去り、茶々丸は、関戸播磨守吉信の手引きによって、堀ノ内の深根城に逃れた。稲梓から稲生沢川ぞいに奥へ入ったあたりだ。
早雲は、この深根城を攻めるため、松崎から婆沙羅峠を越えて2,000の兵を進めている。
深根城も早雲の攻めに防戦かなわず、ついに茶々丸は自害して果て、その首級を抱いて天城山中に逃れた吉信は、首級を埋め、その傍らで自刃して果てたという。
「堀ノ内字槇ヶ窪に五輪の双墳あり。里人之を御所の墓と呼ぶ」
と、古書にある墓は、茶々丸の墓だといわれ、現在は興誓寺境内にある。
伊豆を平定した早雲は、韮山に城を築き、本拠を興誓寺城から韮山城へ移し、さらに小田原を落とし入れ、小田原城を建設、
「関東に北条早雲あり」
天下にその名を上げて、戦国の雄の先駆けを果たすのである。
関東に勇名をはせた北条早雲は、永正16年(1519)8月、88歳でこの世を去る。長子氏綱は32歳、すでに早雲から小田原城をあずかっていた。
下って豊臣秀吉の伊豆政略は、天正18年(1590)3月に始まっている。
小田原を攻めるには、まず伊豆を政略しなければならなかった。
伊豆政略軍の総大将は、鬼武者といわれていた、九鬼大隈守嘉隆で、長曽我部元親、脇坂安治、加藤嘉明、それに徳川の武将、向井正綱、本品重次などの面々。清水港に集結した連合水軍は、一気に西海岸へと進攻、4月1日には安良里砦を本多軍に、田子城は向井軍に落とされ、その勢いに乗じて、豊臣軍は大挙松崎港へ上陸した。
松崎へ上陸した秀吉軍は、いち早く高札をたてて、人心の平定を計っている。
1.戦乱によって散り去った農民を帰らせること
1.軍勢が民家へ陣取ることの禁止
1.百姓に対して不法な申しかけをしたり、麦等刈り取ったものは厳罰にする
この掟書は、天正18年(1590)4月とあり、岩科の天然寺に今も残されている。
南伊豆半島を守るのは、土肥城に富永山城守正家、田子城に山本信濃守常任、安良里砦には梶原景宗が入り、松崎では八木沢の丸山砦に富永三右衛門山随、雲見には高橋丹波守、そして下田鵜島城に清水上野守康英があった。
雲見の高橋丹波守は、北条早雲の伊豆入り当初からの家臣である。
天正18年に豊臣秀吉の小田原戦略が決定するが、小田原城ではその対策に延々と評定が続いた。いつになっても結論は出ない。後にこれを、
〈小田原評定〉
といって、合議がだらだらと、いつ果てるともなく続くことを称した。
この年の正月26日、高橋丹波守は、一族の高橋和泉守六郎左衛門、同じく高橋縫殿助、同高橋三郎らと共に、下田城に入り、清水淡路守とともに城を死守したのである。
籠城は50日に及んだ。豊臣方の長曽我部元親は、偽って矢文に、
「小田原城は既に落ちた。この上出城で戦うは無益である。とく城を明け渡されよ。御身の武勇については太閤殿下によしなに言上いたそう」
といったことを記して放った。小田原が落ちたからには、この上の戦いも無益ならんと、城門を開いたが、あにはからんや、小田原はまだ健在である。元親は、主将清水上野介を討たんとしたが、上野介は血路を開いて河津に脱出、三養院に入って髪を落とした。
高橋丹波守らは、上野介を守って寺を死守しようとするが、
「無事に逃れてくれよ」
との願いによって、一旦東海の掛川へ逃れ、後、江戸時代に入って雲見に帰ることになる。
掛川へ逃れる折に、上野介は、
「下田籠城50日間の戦功を謝す」
の書状を丹波守一行に手渡し、生死を共にした労苦を労ったといい、その文書は、現在も高橋文書として雲見に残ると伝えている。
韮山城にあった北条氏規は、蜂須賀、福島の軍に遠巻きにされ、戦闘のない籠城に焦燥、6月24日、徳川家康の勧告で開城した。
小田原城は、7月5日に降伏、城主北条氏直の父氏政と叔父にあたる氏照が切腹し、氏直は高野山に追われ、翌天正19年に死亡する。こうして後北条氏は五代で滅亡した。その墓は、箱根湯本の早雲寺境内に今も残っている。
北条氏が滅んだあと、北条麾下だった伊豆半島の諸豪族たちは、悲惨な末路を辿って行ったかと思うと、これが、
〈意外に〉そうでないようである。豊臣方による残党狩りも行われた様子がなかった。

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