民話と伝説の宝庫、那賀川上流

公開日 2016年02月04日

『南豆風土誌』に、
「弘安役(後宇多天皇弘安4年・1941=西暦1281)後元主尚窺?の念を絶たず。伏見天皇正応4年(1951=西暦1291)高麗の巨金有成を遣わし後伏見天皇正安元年(1959=西暦1299)8月更に僧一寧(一山と号す)に諭して我国に来らしむ。是れ邦人の仏僧を尊崇するを聞きてなり。10月鎌倉に着す。執権北条貞時大に怒り、捕えて伊豆修善寺に幽す。一寧後本郡船田〈中川村〉の萬法山帰一寺に居る」
の記述がある。僧山一寧は、
「南宋淳祐7年―文保元年(1247-1317)中国の禅僧。元の国書をたずさえ、永仁5年(1297)3月に来朝、元は密偵の疑いをかけられ、伊豆修禅寺に流されたが、北条貞時に信任されて建長寺第十世となった。ついで円覚寺第7世をへて浄智寺にも住し、さらに京都南禅寺第3世に転じた」(白井永二編『鎌倉事典』)
死後、一寧弘済国師の号をおくられた名僧である。
帰一寺には、一山の墨跡が寺宝として蔵されている。
松崎から那賀川にそった道を遡ると、広々とした畑中に、長閑な桜田、那賀、南郷、吉田などの民家が点在し、道のかたわらの垣には、早春の頃などやわらかい冬の陽を受けて、ツバキの大輪が3つ4つと紅い花をつけているのが見られる。
大沢温泉入口の手前、船田で左へ入ると山裾に、
「後伏見天皇正安3年(1961=西暦1301)僧一山の開基にして、初め帰一庵と称し、後改めて一寺となす。国師後数代は公家の帰依僧来住し、天文(2192-2214=西暦1532~54)中、小田原北条家より寺領70石の虎判並に禁制下馬の2札を下付せられ、宝貨の寄進亦少なからざりしが、祝融の災に罹りて悉く灰燼に帰せり。正保(2204-2307=西暦1644~47)中、徳川家光地所縄入の際、伊豆国、50個寺の中本山たるの故を以て、遂に慶安元年(2308=西暦1648)8月船田の内、寺領20石の朱印地を与へられしが、明治8年上地還納せり」
と『南豆風土誌』に記された帰一寺がひっそりとたっている。
伊豆半島の西海岸から南海岸にかけて、横道33ヶ所めぐりの道が最近発掘、紹介されて、密かな人気を信者の間に高めてきているが、その2番寺が帰一寺になっている。
伊豆横道33ヶ所巡りの道は、源頼朝が伊豆に流されていた頃、松崎の宮内にある相生堂で、文覚上人を源氏再興の密議をこらし、その成就を祈りながら「33観音」をめぐったのにはじまるという伝説を、のちの人々が育て上げているが、寺の過去帳などほとんど焼失していて、はっきりしたことはわかっていない。
いずれにしても、西国や坂東、秩父などの霊場めぐりが盛んになってきた江戸時代に入ってから、伊豆横道の33ヶ所霊場巡りも盛んになってきたものであろう。
ある秋の1日に帰一寺を訪れたら、知多の方からみえたという観音巡りの白衣の信者たち一行と行きあった。観光バスをチャーターして、1つ1つの寺を訪ね、朱印をいただいてまわっているのであった。
整然と並ぶ石段を登ると、立派な山門があり、両側は、見事なナマコ壁が左右にのびて、寺域をぐるりとまいている。奥伊豆の名刹といわれているだけに、なかなか見事な構えである。
山門の手前を右に折れたところには経堂が建っている。中には輪蔵があり、白陰禅師の著わした『帰一禅寺経蔵記』が中に保存されている。
それによると、享保18年(1733)10月23日、帰一寺の第19世住職栄道の時、大壇家であった大沢村の依田佐次兵衛(貴長)が、中村の大工棟梁馬場弥惣兵衛、大工肝煎藤井惣兵衛に建物を作らせて寄進したものであるといわれる。
経堂は間口、奥行とも5.8m」、高さ8.7mで、中に納められている輪蔵は、1辺1.29m、高さ4.8mの六角形に作られてあり、経堂の中心に1.1mの軸木が固定されてあってその上にのっている。
書箱に納められている経文は、白陰の経蔵記によると6700巻の経巻とあり、享保2年(1717)6月、峰輪村の大石七郎左衛門(大屋)が4270巻の経文を寄進し、享保17年(1732)には大沢村の依田佐次兵衛が2430巻(内大般若経600巻)を寄進したものである。この内には延宝5年(1677)4月宇治の黄檗山宝蔵院誠沙門鉄眼募刻による大般若波羅密多経、その他なども収められている(『松崎町文化財に関する資料』による)。
船田の先で三余荘ユースホステルの昔風の長屋門を思わせる建物を見ると、その先が大沢温泉入口の分岐。県道はこれから小杉原をへて婆沙羅峠へと登って行く。
小杉原は民話、伝説の里といわれている。山がせまって、狭い谷あいに民家が軒を寄せあうようにある小杉原は、いかにも物語の山里という感じは深い。
下田から横川をへて、婆沙羅トンネルを越えると松崎の町へ下っていく。新しくなった道がいくつかの曲折を繰り返し、下ってきた最初の里が小杉原である。普通はバスの車窓に眺めたまま通り過ぎてしまう小さな山里である。
『南豆風土誌』に、
「蛇ヵ狭 小杉原に在り。伝へいふ仁平元年(1811=西暦1151)甲斐猟夫某巨蛇に害せらる。其女子姉妹2人弓術を練習し、父の仇を報ぜんとし、来りて山中に在ること数旬、遂に大蛇を射て双眼を貫く。怪蛇怒りて将に姉妹を害せんとし疾走奔躍、過て断崖に鷆落し、巨岩の間に挟まり、苦悶七昼夜にして死す。里人其の蛇骨を納めて埋葬し、一寺を建立して蛇骨山大蛇院と称すると。今の大地庵、即、是なり。」
また『増訂豆州志稿』に、仁平元年(1151)に、大蛇の骨を埋葬して一寺を建立して蛇骨山大蛇院といったが、後に蛇を地に改めたものであると記された大地庵は、正徳元年(1711)の洪水に荒らされたため、川の向こうの現在のところへ移されたものといわれる。大蛇の骨は、魔除けになるとの話が伝わり、大部分は持ち去られてしまったという。その大蛇の骨の一部は、現在岩科にあって、門外不出の秘物になっているということだ。
小杉原のミヤノヤトには、誉田別命を祭神におく八幡神社がある。慶長14年(1609)の棟札がみられるので、300有余念前の古いものである。藤原時代の水皿・・・双雀鏡一、鎌倉時代の菊花双蝶鏡一、室町時代の菊花双雀鏡一、江戸時代の蓬莱鏡天下一一などの神鏡が社宝として伝えられている。
大蛇を退治するにあたって、願をかけた八幡さまの社前に、お札にと小杉を1本宛植えた姉は、この喜びを知らせるため国許の甲州へと帰っていったが、美人のほまれ高かった妹のほうは、里人に引きとめられて、遂にこの土地に残ることになった。
村の若者たちは、社前に小杉を植えたえにしで、妹を小杉小杉ともてはやした。山野に植林の仕事に通う若い衆たちは、
「小杉小杉」
と、口ずさみながら植林したという。そして、周辺一帯の谷あい、山肌は小杉の原となり、それがいつか「小杉原」の地名へと変わっていったと伝えている。
美人姉妹の植えた小杉は、その後見事な大木となり、この地に勢力を張った依田財閥が、徳川時代に入って、その巨杉を伐ち倒して、勢至丸、勢徳丸の千石船を建造し、海の産業、商売をより盛んにし、村の発展に寄与するとともに、依田財閥もより増大させたと伝えている。依田家ではそのお礼に、八幡神社に金灯籠を寄進した。安永3年(1774)の頃のことと伝えられている。この灯籠は、太平洋戦争のとき、供出されてしまったので、今はない。
峰輪の大沢温泉入口から大沢(池代川)の流れについて少し入ると大沢の集落である。
「大渓があるに依って村に名ずく」
と、古書にある。
大沢といえば、今日、西伊豆の名湯の1つとして、つとに有名になっている。
しかしながら、戦前の鉄道省やその他で発行された『温泉案内』『東京附近温泉の旅』などを開いてみても、大沢温泉をふれているものは、ほとんど見い出されない。
船津好著『伊豆松崎の民話』によると、
「昔より大沢白尾山の麓の川べりに温泉が自然に湧出していたが、昔は長い間かえりみる者もなく、只砂のくぼみの湯だまりで行水をするものがあった程度に過ぎなかったが、明和の頃即ち今(1975)より200年前に初めて、大沢の大屋で2つの浴槽を設けて、当時はこれを湯舟といって、僅かの人が入浴するようになったのである。明治になってからは、病に効能があるといわれて入浴するものがいくらか多くなり、中には湯を汲みに来て、病の治療に用いるものが次第に多くなって来たので、明治18年(1885)、今(1975)から90年前に新たに浴槽を設けて、大沢湯と称して、初めて温泉場として開設し、以来長く西伊豆地方唯一の温泉場となって、その名が遠近に広まったのである」
とあり、以前はこの地方唯一の温泉場として、近郷近在はもとより、遠来の客まで湯治に来ていたようだ。
このことからみると、若干の湯治客を泊めるくらいの施設はあったものであろう。また民家や庄屋での民泊、いまでいう民宿スタイルでの宿泊なども行われていた。
昭和の前期のころは、もうだいぶ伊豆半島の開発は進められているものの、ごく普遍的な鉄道省の温泉案内の本などに大沢温泉の記述が落ちているということは、やはりかなりの、
〈秘境〉
あるいは、当時よく使われた、
〈桃源郷〉
的色彩の強いところで、落人里の伝説もなるほどと思わせる地であったものであろうことは確かなようだ。
わずかに『伊豆の番頭』(芹沢天岳著、伊豆温泉名所案内所刊)の増訂版(昭和16年刊)に、
「大沢温泉―大沢温泉は別名湯瀬温泉とも云ひ明伏から分岐して約5分、大沢横田白尾山麓中川支流に沿って湧出する西部唯一ヶ所の温泉場であります。起源は遠く明和年間から浴用に供しておりますが、低温の為と交通不便のため開発せられず今に至りました、然るに現松崎町長依田四郎氏は之を遺憾とし数千金を費やして試掘するや其の努力は報ひられ、昭和12年12月に至り毎分湧出50L、切枝55℃の無色透明の硫黄泉を掘り当て、温泉場として頭角を現はすに至りました。松崎の恩人として依田氏の労を多とすると共に土地開発のため慶賀の至りであります。此の湯は総て温めてよい病気には何んにでも効能があります。同年四月広大なる旅館も新築せられ温泉場として、名実共に備はるに至りました。側わの渓流は鮎、ヤマメ釣りの好漁場で、谷合いには鶯が鳴き河鹿の声もすがすがしく付近には名所旧跡数多く、極閑静に絃歌の声を聞きません故、繁華な温泉に飽いた人々に、是非御奨めしたい処であります。然し只今では旅館は経営して居りません。近く開業になりませう」
の記事が見い出される。
これによれば、一時宿泊施設がない時代もあったようだ。
大沢温泉ホテルは、奥伊豆の庄屋屋敷として古くから知られ、ナマコ壁が重厚な姿を伝えている。旅館としてはじまったのは、約20年前からである。
依田家は、同じく『伊豆松崎の民話』にみると、
「信濃国小県郡依田六郎為実を祖とし、鎌倉時代より続く名家で、戦国時代には甲州武田軍の中堅幹部として、勇名をとどろかせた武将である。天承10年(1580)武田氏が天目山で敗れた後は、一族を引きつれて遠く伊豆の奥地、ここ松崎大沢の里におちのびて帰農したものであるという。主屋は約90坪、本瓦葺き、徳川時代中期の庄屋建築という武家造り、防火戸防火設備などに細かい配慮が尽されている」
甲斐は山国である。四囲を山にかこまれた甲斐の国から、いくつもの山を越えて、伊豆半島の南端まで落ちのびるのは、今の時代に考えるほど容易なことではない。
岩科の八木山の平家落人里の伝説の場合には、岩科川の河口から近い一帯の仁科荘は、平氏の支配下にあった地帯であるから、平家滅亡により、近い山の奥へ逃げ込んだものであろうが、甲斐の国と南伊豆ではかなり遠い。
思うに依田氏は武田の武将時代に、伊豆の産地に産金を求めて、この地に対するある種の土地カンみたいなものを持っていたのではないかと思える点が考えられる。
伊豆は古くから探金のための山人がかなり入り込んでいた。また各地の武将たちは、自己の勢力を保ち、広げるための黄金を必要とする。探金は当然かなり早くから行われていたものであろう。
伊豆の金脈は、土肥金山をはじめ、いくつかが、今までに開発、産鉱されてい、今もその跡を留めている。
伊豆金山奉行になった大久保石見守長安(1545~1613)は甲斐の出である。
長安は、甲州流採鉱法に南蛮採鉱法を加えた新しい技術により、産金をかなり大がかりに行ったといわれる。
武田氏の軍資金調達のための探金調査などによる伊豆半島方面に対する認識が、武田家滅亡後、依田氏を奥伊豆へ落ちて行かせた近因であったのではないかと、想像されないこともない。
先の小杉原の大蛇退治の伝説の主人公も甲斐の人とある。
「甲州の商人」
とされているが、この時代、山国の甲州から、伊豆の南端近くまで商人が足を伸ばしていたものがどうか、かなり疑わしい点である。いっそ依田氏を、
〈甲州から探金のために派遣されていた、武田家の家臣〉
としてみると、大変興味深いものとなってくる。
那賀川の奥の大沢の地に、人里離れたくっきょうの隠れ里を、みいだしたのも、そうした背景があったのではないかと想像される。
大沢の地に土着し、後に土地の庄屋としての勢力を張るようになるには、一介の落武者のなせるわざではない。おそらくは一族を引きつれての落人とはいうものの、かなりの黄金を秘し持って落ちてきたものであろう。それを裏づけるように、
「先祖は仏像を背負って大沢へ落ちてきたと伝えている。その中に黄金を秘めてきたと考えられるね」
という、依田敬一氏の談話は、創作欲を刺激する興味深い話である。
依田家は土地の素封家として、のちに多くの偉人を生んでいる。明治の初め伊豆の先駆者として知られた依田佐二平、北海道帯広を開拓した依田勉三などが有名である。
依田佐二平は、弘化3年(1864)大沢依田家に生まれ、土屋三余の門に学び、15歳で東都へ出て勉学し、若くして家を継ぎ、名主になった。元治元年(1864)に大沢学舎を設け、儒者をまねいて、村人たちの育英の行に従い、さらに明治6年(1867)、足利県第11小区(那賀全郡)長になり、ついで8年には県会議員になっている。また伊豆四郡々会長に選ばれ、松崎製糸工場の創設、豆陽中学校設立、豆海汽船会社を起こすなど、産業の奨励、地方の開発と精力的な活動を示した。
明治23年には衆議院議員に選ばれて代議士となり、明治40年には、製糸で金牌を受け、また米国セントルイス博覧会において銀牌を受けるなど、製糸業における名誉は数々記録されている。
伊豆開発の恩人として、大沢のほとりに立つ石像に、依田佐二平翁の業績がしのばれる。
大沢の奥は池代だ。ここの先住民は、はじめ火ヶ原の池のほとりにひっそりと炊煙を上げて、高天ヶ原といわれる高原一帯を住み屋としていたと伝えている。やがて高原の原住民たちは、流れる水を求めて那賀川の上流へと下ってきた。そして清冽な清水にほれこんで、ついにこの川の上流を開拓して住み屋にしたという。これが池代の原住民族の誕生といい、山の神の祀られた古屋敷といわれるところが、その地だと伝えている。山ノ神は原住民が守護神として祀ったものであるという。
池代に最初に住みついたのは約十軒であった。その後さらに下流へと開墾し、次々と新田ができて行った。上流の原住民も、第2のふるさとを下流へと移し、やがて現在の池代との地に定住するようになったといわれる。新田の開拓に力を尽くしたのは、新田氏であるという。新田とは旧田、古田があることによって、新田と呼ばれたものである。
古屋敷で草分けの栄をになう10軒は、1,000年の長きにわたって今日にまでその歴史を刻んでいる。

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