三浦をめぐる歴史の興亡

公開日 2016年02月04日

道部温泉という鉱泉宿がつい近年まで営業していたという。道部で、岩科川を渡って三浦へ通じる"富士見彫刻ライン"の道へ入っていくところに、
「鎌倉時代のものではないか・・・」
と、町の人たちが伝えている五輪塔がある。
鎌倉地方に多く見られる〈ヤグラ〉を思わせるような岩棚に、苔むした塔が数基、ひっそりと忘れられている。
雲見の先でマーガレットラインの有料道路に続く富士見彫刻ラインは、国道136号線で、沿線沿いに松崎の子供たちの製作になる彫刻が並んでいる特異な道路だ。
最初の道の突っ鼻に出ると、松崎の港から町の前景が一望にできる展望のよいところへ出る。
松崎の長い砂浜も一望のもとだ。
これから岩地、石部、雲見と連なる海岸沿いの漁村は、
〈三浦=さんぽ〉
と呼ばれる一帯で、古くは岩科村の範囲であった。
昭和31年に松崎町と合併して、松崎町となった。
近年になって温泉の湧出を見て、温泉民宿が発達し、夏の海水浴シーズンには、なかなかの賑わいをみせている。花どころでもあって、春はマーガレット狩りなどが人気を高めている。
三浦の一帯、すなわち岩地、石部、雲見は伊豆の西海岸ではかなり早くから開けていたところらしい。
土地の伝承によれば、平安時代の頃から岩地、石部など藤原氏にゆかりをみせている。
岩地の発生や成り立ちなど、歴史的背景と思われる伝承を『伊豆松崎の民話』(船津好著)では、次のように整理している。
アワヤと谷地のオオヤの先祖は兄弟で、公卿の藤原朝臣の末裔だという。その兄弟がここに落ちてきて、村を開いたといい、現在この両家のみが家に門松を四本あて立てるといわれている。
谷地のオオヤは村の氏神「両性神社」(今諸石)の禰宜を代々勤めている。この神様は斎藤氏が持って来たものだと伝えている。
ブンザの先祖は石部から移住して来たという。
郷戸のオオヤの先祖は雲見の入道山に住んでいたという。
長島一族は後から来て、アワヤにワラジを脱いだと伝えている。その時、八幡様を持って来て、アワヤの地所に祭り、アワヤと長島一族で祭って来たという。今はアワヤで祀る。
この八幡様は、50年くらい前までは、寺の後の向山(八幡山という)のアワヤの地所にあった。今はアワヤの屋敷の横に移されている。
西谷の川の辺りは、昔は田であった。
斎藤一統は、斎藤一族として栄え、本家を中心にして繁栄している。(たにちのオオヤ、アワヤ、ブンザ)。村内の適当なところへ分家(ロクエモン、エンヤマ)を出している。ともに村内では旧家である。
同姓の家でも、必ずしも同じ系統、同族とは限らない。
フダイという言葉が残っている。
フダイは土地の人達は家来のことを指すといっている。昔はこのように主従関係が相当あったらしい。例えば小浦浜ではアワヤが西南半分の家々を、ブンザがその北半分をフダイにしていたという。今は一切平等で、講などもすべて同じように組み立てられている。
次の石部は、長者ヶ原から発する石部川の河口に開けた漁村である。
『倭名抄』(平安時代の中ごろ、930年代に源順によあって編まれた歴史関係史料)によると、那賀郡石火郷の名がみえているという。
村内にある伊志夫神社は、延喜式神名帳にものっている古社で、式内社になっている。
『南豆風土誌』にみると、
「村社、祭神、事代主命、式内伊志夫神社にして、往昔神田の地より遷祀すと云ふ。上古の神主は磐石にして今尚神田に在り、磐上に凹処有り。伝へ云ふ神火を焚きたる処にして、石火の起因なりと。然れども古、霊を訓して此と曰へば石火即、石霊に非ざるか」
と、記されている。
天文年間には、しばしば火災に見舞われたところから、〈火〉を改めて、
「石部」
に書き改めることにしたといういい伝えは、八木山と0同系統のものである。
石火とは、燧石をもって、火を起こすことを知った民族の喜びから出たであろうといわれてもい、そうすると、石部には石器時代あたりから人類が住まっていたのではないかと考えられてくる。
伊志夫神社の鍵取りを継承して今日に至っている。
高橋和泉守六郎左衛門の時代は、小田原城の後北条氏に属する武将で、天正18年(1590)の豊臣秀吉の下田城攻めのときには、雲見の高橋丹波守とともに下田城に籠城し、善戦したと伝えている。
三浦の南端は、雲見浅間の岩峰に抱かれるようにある雲見の浜である。
「此の地四方峰巒囲繞唯青雲を見るのみ、故に名くと云ふ」
と、古書にあるように、4分の3は山と岩峰に囲まれ、小さな浜がわずかに前面に開けている天然の要害の地形である。
雲見の上ノ山城には、高橋氏が城主としてかなり古くから入っていたようだ。
『松崎町史年表』によると、足利尊氏の時代、正平8年(1353)には、高橋丹後守が入っていたことが記されている。
『南豆風土誌』にも、源基氏伝帖(土肥神社所蔵文書)に、正平4年(1349)の関東管領下の南伊豆各地城主を並べていて、雲見上ノ山城主に高橋丹後守の名を記している。
このころ中央は南北朝時代で、足利尊氏が将軍であった。
鎌倉幕府は、元弘3年(1333)の新田義貞の攻撃で、北条高時ら一族は、葛西ヶ谷の奥の祗園山にある洞窟に逃れ、炎上する鎌倉の町を見おろしながら自刀し、北条氏は滅び、幕府も倒壊した。
このあたりから、足利尊氏が将軍になるまでの間に、雲見の高橋氏は台頭してきているのではないかと推定される。
享徳3年(1454)は、後花園天皇の時代である。
このころは足利、上杉氏の争いがあって、関東は大いに乱れていた。
長禄元年(1457)には、太田道灌が江戸城を築いている。
河内には一撥が起こり、暴徒は京都に侵入して大騒ぎとなった。将軍足利義政は、関東平定のため弟の政知を伊豆北条掘越の館に遣わしている。これが掘越公方といわれた、関東管領であるが、御所の令は、この頃になるとほとんど行きわたらなくなった。
この頃になると戦国大名もぼつぼつと姿を見せはじめる。
駿河国一帯は、駿府に本拠を置く今川氏によってほぼ支配されていた。
伊豆半島も今川氏に身を寄せていたのが、一代の風雲児といわれた伊勢新九郎(のちの北条早雲)である。
今川氏に巧みに取り入った新九郎は、延徳3年(1491)に、掘越を改め、足利茶々丸を殺し、伊豆を手中に収めた。
掘越攻めには、清水浦から船を出して、松崎、田子などの浜に上陸した(別項参照)。
この年、雲見の高橋将監は、新九郎の家臣になっている。
新九郎の治世は降った者たちの領土の安堵にかなり大きな意をそそいでいる。
この方針が戦国の武将、豪族たちに迎えられたものであった。戦国時代は、土地が、領土が大変貴重なものであったわけだ。
新九郎の家臣になることによって、高橋氏の雲見は安泰であった。
明応5年(1496)には、狩野道一の反乱を北条早雲の命によってしゅびよく鎮圧した功により、高橋氏は判物証文を受けている。
小田原に城を築き、善政をしていた早雲が、有名な「家訓21条」を残して、88歳の高齢で没するのは、永正16年(1519)である。
武田信玄、織田信長などが歴史の表舞台に踊り出てくるのはもう少し後のことである。
武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)が川中島で、歴史に残る合戦をするのは、天文22年(1553)である。ついで天文23年(1554、弘治元年)に再び川中島で両雄が戦っているが勝敗は決し得なかった。
東海では今川氏を桶狭間に取り、破竹の勢いで戦乱の世を平定に向かっていた織田信長が、本能寺で明智光秀のために殺されるのが天正10年(1582)で、小田原城の後北条氏が豊臣秀吉の攻撃に開城するのは、天正18年(1590)である。
その前年の天正17年(1589)6月には、雲見の上ノ山城には高橋丹波守左近がいて、北条氏へ鯨1頭を上納したという記録が残っている。このころは伊豆沖周辺にまで鯨が回遊してきたのだろう。鯨を上納した半年後の天正18年正月には、豊臣秀吉の軍が松崎へ上陸し、下田を攻めている。高橋一族は、雲見から下田城へ駆けつけ、下田城主清水淡路守を助けて、50日間の籠城に耐えて善戦したが、及ばすに敗れた。
戦いはすんで、高橋氏は一旦東海の掛川へ逃れ、後に再び雲見へと戻り、三島代官の支配下にひっそりと過ごし、歴史の流れの襞に隠れて江戸時代以後を送ったのである。
雲見の浜が道の下方に見えてくると、浜を抱くように雲見浅間がそびえたつ。
烏帽子のような形をしている岩峰であるとことから烏帽子山ともいい、また、
「一に御嶽山と名づけ、浅間山と称す」
と、古文書に記述されている。
頂上に浅間神社を祀るところから雲見浅間の名がついているのだ。
浅間神社の祭神は磐長姫命で、これが大変な醜女であったという。山の神の大山祗命の娘で、妹に木花開耶姫がいた。妹は並ぶもののない美貌の持主であったため富士山に祀られた。姉の雲見浅間磐長姫は、富士山を見るのは、
「いやだ」
といって、常に顔をかくしていた。そして、富士山に雲がかかっていると、雲見浅間は顔を出した。富士山が晴れている時は、滅多に顔を出すことがなかった。
そのためいつも雲見には雲が低迷し、
〈富士山と両方が顔を出す〉
ことは、本当に稀であったという。
また雲見浅間へ登って、富士山の話をすると、磐長姫の怒りに触れて、
〈海中へ投げ出される〉
といわれ、村人たちは雲見では絶対に富士山の話をしなかったという。また村人たちはどんなに誘われても富士登山は、昔からしないという。
こんな伝説が残されている雲見には、早くから温泉の湧出を見て、民宿、旅館などの発達も著しく、なまこ壁の民家をはじめ、村の入口にあった古い宝篋印塔や、びっしり集められた墓塔群などが、雲見の歴史の跡をそぞろにしのばせたものであったが、これらの墓塔群は、マーガレットラインの道路工事のため、雲見入口の石切場の跡に造られた雲見霊廟に、昭和47年11月に納められ、村人の新たな信仰の場となっている。

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