松崎の名が歴史に表われる

公開日 2016年02月04日

国民宿舎伊豆まつざき荘の前に、弁天島が、宿舎の風よけのように控えている。
『伊豆の番頭』に、
「巨鯛島―松崎から人家続きの江奈へ出ると海岸の巨鯛島は一名弁天島と呼んで頂上に厳島神社を祀ります。島は巨巌累重樹木欝蒼と繁って海岸よりの眺めはさながら一幅の名画其の儘であります」
と、紹介されてあるように、岩山に樹木のうっそうと茂った小さな島で、まわりに遊歩道が巡っていて、宿舎からの軽い散歩コースとなっている。
島とはいっても、現在では、宿舎の前から陸続きになっている。
奇岩怪石の絶壁をみせる頂上に登ると、神社のまわりにみごとなウバメガシの巨木がそびえている。周囲1mから2mもあるようなみごとな巨木は、大変珍しいものである。
山頂から樹間を通して望む、松崎海岸の長大な砂浜は美しい。
「松崎海岸 一帯の翠松曲汀に沿ひ、其の尽くる処即ち巨鯛島にして、眼界遠く開け、遙に駿遠を望めば一抹の青螺粉薰の如し。北条五大記に言わく、延徳中、北条早雲駿州清水浦より大船数艘に、500人取乗せて出帆し、伊豆、松崎、西奈、多子、あられの港に着岸す、と。松崎八景の勝あり」
『南豆風土誌』に記述された松崎海岸の曲汀は、夏になると海水浴客がどっとくり出して色とりどりの鮮やかな海水浴場風景を展開する。美しい砂浜は西海岸でも特に人気の高いところとなっている。
松崎港のある岩科川の河口に合流する那賀川は、昔は弁天島のある江奈へと流れ、一方は松崎の方へと流れ、向浜辺は三角州を形成していた。いわゆる河口のデルタ地帯であったという。那賀川の押し出す土砂の堆積によるものであろう。このデルタ地帯に防風林として松並木を植えたところから、
「松ヶ崎」
の名が生まれたのではないかという説話がある。
まつざきのあたりは、もともとは、
「伊那」
と、呼んでいたもので、伊那下神社、伊那上神社は、新羅の帰化人、猪名部族が奉祀したのにはじまると伝えている。
猪名部族は、古くは摂津、伊勢、丹波、近江、隠岐、伊豆などに栄えた一族といわれている。造船の技術にたけていたと伝え、その一派が西から海岸の黒潮にのり、伊豆七島を飛石伝いに伊豆半島の海岸にたどりつき、那賀川の下流一帯に居住した。やがて猪名が伊那と呼ばれるようになったものといわれている。
今も残る江奈の地名は、伊那が江奈に訛ったものとみられ、またその西方を西伊那と呼び、後にそれが仁科となったものであろうといわれている(吉田東伍博士の説)。
松崎の地名が文字の上に表われてくるのは、建暦元年(1211)のことである。
『増訂豆州志稿』によると、伊那下神社に所蔵される古文書に、
「仁科荘松崎」
の文字がみえ、これが初見文書上限文書として現存する最も古いものである。
建暦年間といえば、鎌倉に幕府が開かれてのち、源氏は骨肉の争いに終始し、血で血を洗う悲劇の歴史が刻まれているさなかであった。
治承四年(1180)8月、流人の生活を送っていた源頼朝は、伊豆国政庁の支配者、山木兼隆を山木館に襲撃して首をあげたあと、東へ山を越えて湯河原から相模国雨石橋山へ到着、ここに源氏の旗上げをするが、大庭景親一行の大軍に迎え撃たれ、一敗地にまみれ、安房へと逃れる。同じく衣笠城落成によって、安房へのがれた三浦一族と合流、下総の千葉介常胤、上総の上総介広常などの豪族の参加を得て、同年の10月には早くも相模国鎌倉に入って、鶴岡八幡宮東側の大倉郷に館を定め、武家による東国政権の地固めを行った。鎌倉幕府がここに始まるわけである。
建久3年(1192)3月、後白河法皇が62歳でこの世を去ると、政治情勢は大きな変化をみせる。平家を壇ノ浦に滅亡させた頼朝は、法王の死去により、長年願望していた征夷大将軍を手中にし、鎌倉幕府の政治もようやく軌道に乗ってくる。
政治の中心は京都から鎌倉に移り、鎌倉は寺院の建設、都市造りなどにより、独自の文化の花を咲かせてゆく。市街地には、武家屋敷、商店街、問屋地域などの区分も生まれ、繁栄への道を急速に進んでいったのである。
源頼朝によって源氏一族の華は開き、東国武家政権の時代が約150年に渡って、北条氏が滅亡するまで続くのである。
しかしながら源氏は、頼朝が、正治元年(1199)正月13日に世を去ると、後を継いだ二代将軍頼家、三代将軍実朝、八幡宮別当公暁(頼家の子)ともどもに、血で血を洗うような暗殺の繰り返しによって抹殺され、源氏のすべての血が絶えてしまう悲劇を、数年のうちに重ねることになるのだ。
武家政治の頭領として、鎌倉に幕府を開いた源氏が、かくも悲劇的な末路を迎えなければならなかったのはなぜか-。
頼朝のあと、二代将軍となった頼家は、寿永元年(1182)に正室政子との間に嫡子男として生まれ、幼名を万寿といった。生まれながらにして源氏の後継者として世を送ることになる頼家。確かに彼は将軍となるべき資質の1つである武芸に優れた、若武者となって行くが、頼朝の死が早すぎたため、鎌倉幕府の基礎はできても体制がかたまり切るまでには、時日の不足があったことは容易に推察される。
頼家の手腕に不安を感じる側近の老臣たちは、政子と計って、合議制を布き、独裁的な政治に走ろうとする頼家の直接訴訟を裁断することを停止した。
合議参加の13宿老は、北条時政,義時父子と大江広元,三善康信,中原親能,藤原行政の4人の幕僚,三浦義澄,八田知家,和田義盛,比企能員,安達盛長,足立遠元,梶原景時ら有力な御家人たちであった。
そして、おそらくは時政、義時父子がそのイニシアティブをとって、政子を説得して動かしていったものであろう。
頼朝の晩年に至っての独裁政治に対する不満の内訌が、頼朝の後をそのまま受け継いで、頼朝と同じ独裁政治を進めようとした未熟な頼家の政治に、御家人たちの不満はより強められ、その結果、合議制になって行ったものである。
御家人たちの権益擁護を一貫して政治に打ち出す北条氏と頼家との政治権力争いは、さまざまな形で歴史の表に、あるいは陰に繰り広げられて行く。
梶原景時の粛清事件、比企能員をはじめ一族皆殺し事件などを経て、頼家は伊豆の修禅寺に幽閉され、元久3年(1204)7月18日、北条氏の手の者によって惨殺され、23歳の短い一生を終わっている。
ついで三代将軍になった実朝は、建久3年(1192)の生まれ、幼名は千幡といった。頼朝が征夷大将軍になった年の出生である。頼家の弟だ。歌人としても名高く、『金槐和歌集』などの歌集を残している。
実朝が三代目の将軍職を継いだ時は、まだ11歳の少年で、政治はすべて祖父時政、叔父義時らによってすすめられ、少年将軍は、たんなる傀儡にしかすぎなかったものであろう。北条氏の勢力は実朝の時代に急速に増大してくる。
建暦元年(1211)に、伊那下神社に送られた実朝の書状に「仁科荘松崎」の名称が表われている。このころ幕府は、守護地頭に命じ、海道に新駅を設けている。
実朝は、承久元年(1219)正月27日に、鶴岡八幡宮境内において、八幡宮別当公暁によって殺された。『愚管抄』は、これを次のように記している。
「夜ニ入テ奉幣終テ、宝前ノ石橋ヲクダリテ、扈従ノ公卿列立シタル前ヲ揖シテ、下襲尻引テ笏ヲモチテユキケルヲ、法師ノ行装・兜巾ト云物シタル、馳セカカリテ下ガサネノ尻ノ上ニノボリテ、カシラヲ一ノカタナニハ切テ、タフレケレバ、頭ヲウチヲトシテ取テケリ」
『吾妻鏡』によると、実朝のこの日の参拝に剣を捧げる役であった北条義時は、その直前に気分が悪くなったと称して、仲章朝臣にその役を譲り、にわかに帰宅して難を逃れた。仲章はそのとき実朝と一緒に公暁に殺されている。
実朝を殺した公暁は、後見人の備中阿闍梨の家にはいるが、間もなく義時の命を受けた三浦義村の討手によって討ち取られ、ここに頼朝の直系の子孫は、断絶してしまうのである。
北条は、時政、義時と実に読みの深い、油断のならない政治家ぞろいであり、権謀術数をもって、頼朝未亡人政子を表面に立てながら、つい北条執権政治を成立させていく。
しかし、実朝、公暁の二重暗殺事件など、源氏滅亡の筋書は、すべて義時の演出によるものとするのは、世に「陰謀史観」とも名づけられる、いわばおとぎ話ともいえるものであって、歴史の流れは、そんなに単純なものではないかもしれない。いくつかの主役が互いに引っ張りあううちに、いつしか1つの方向へ進んで行くものである。
北条執権政治の成長は、巧妙な陰謀の成果というより、東国の1地方武士の出である北条市の覇権獲得と共に、東国武士による権力獲得の第1歩ともいえるもので、武士政権としての鎌倉幕府の発展の1過程を示すものであった。

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