早くから開けた岩科川

公開日 2016年02月04日

港の朝は早い。
人々が活動を始まる前の一時、港の魚市場では、朝のセリが始まっている。
この時間では、波勝崎や堂ヶ島への遊覧船はまだ眠っている。
その脇へ沖の定置網漁から帰ってきた漁船が着く。
「どうだ」
「うん、まあまあだ」
「それー」
なんとなく、〈ワーン〉とするような、かしましいいっときだ。
魚市場の朝まだきは、どこへ行っても、一種独特の雰囲気がある。威勢のいい、
〈いなせな〉
若者たちの職場でもあるのだ。
松崎町の1つの風物詩ともいえよう。
そんな魚市場を見学した後、港へ注いでいる岩科川に沿って奥へ辿る。
「岩科川 源を岩科村田代及び八町池に発し、西北に向ひて同村を貫流し、道部に至りて水路急に折れ、那賀川と合して松崎の海に注ぐ。流程凡そ三里、橋梁を架すこと8個。峯より以下約一里に舟楫の便あり」
『南豆風土誌』(大正3年7月刊、昭和48年復刻、長倉書店版)に記された岩科川は、かつては河口からしばらくは舟も通っていたものと思われるが、今は川幅もせばまり、河床も山から押し出された流砂によってだいぶ上がってしまい、舟の便を操るほどの水位はない。
道部からのどかに広がった田園風景のなかの道を岩科川ぞいに歩いて、岩科の里に入る。
ナマコ壁をいっぱい残した民家の多い岩科の里は、やわらかな陽差しを受けて、いつものんびりした山里風景を見せている。港に近い位置にありながら、ここは、
〈山村の雰囲気〉
を、至る所に溢れさせた、静寂な里である。
松崎町の歴史をたぐりながら時代の流れを散歩していると、岩科村の存在が大きくのしかかってくる。歴史の跡がしっかりしてくる中世から近世にかけてはもちろんのこと、さらに上代へと遡って行くと、縄文時代のもの、弥生時代の文化の跡と推定される狩猟、漁?、採集などによる生活の痕跡、あるいは古墳時代におけるいくつかの遺跡など、いずれも岩科川の流域を中心に発見されている。
すなわち、岩科、指川の上ノ段遺跡からは縄文文化の前期末から中期にかけての土器、石斧などが発見され、この地域では最も古いものといわれている。上ノ段遺跡のやや東側対岸、岩科小学校の東南の、標高20mの台地上には、寺尾ノ段ともいわれる西ノ段遺跡があって、ここも縄文文化の中期末の遺跡とみられている。ここから出土した土器類は、南関東地方の影響を受けたものが多く、東海地方や甲信越地方の影響も加わっているといわれる。
そのほか棒状斧、打製石斧、石匙、石皿、石錘などの各種石器が出土し、これらにより当時の人々の生活が狩猟、漁撈などが主体であったことが推察され、集落の形成もあったものではないかと推測されているが、住居地の跡はまだ確認されるまでに至っていない。
また西ノ段遺跡のすぐ東側台地上には、東ノ段遺跡があり、縄文中期の土器が出土している。
下って、古墳文化時代になると、大和朝廷の国内統一をみて、古墳文化は全国的に広がりをみるが、松崎においても、その遺跡はかなり発見されている。
松崎高校裏の山裾からは、日常生活に用いられた甕や鉢など土師質の器が発見され、那賀川と岩科川が合流する地点、港を見おろす標高100mの地には道部古墳があって、高杯、甕、杯などが出土している。
現在の港のある周辺から国民宿舎伊豆まつざき荘のある弁天島へかけての一帯は、
「昔は海だったんだ」
と、古老の語られるように、岩科川、那賀川などの運び出した土砂の長年にわたる推積作用の結果出現したデルタ地帯である。従って大古はもっとずっと奥まで湾の入江は喰い込んでいたものであろう。
岩科の里は『南豆風土誌』によると、
「岩科村は西部地方の西南に位し、岩科,道部,岩地,石部,雲見の五区より成る。東は稲梓村に界し南は南上,三浜の二村に隣り、西は海湾に臨み、北は中川村に接し、松崎町に通ず。面積二方里五六、戸数744、人口4509あり。
東方は南部山嶺の支脈たる雲嶺(517米突)より、北中川村の楠原山(540米突)に連なり、余脈道部に至りて尽き、足山(547米突)青野コウジ・暗沢山の本嶺は蜿蜒として南界を走り、西、烏帽子山より更に東北に一支を派し、岩地の東南に笹野山を起して、余勢大嶺に延び、所謂三浦の地を劃す」
とあって、さらに村の変遷が簡単に記されている。
「本村は古那賀郡仁科荘岩科郷の地にして延宝(2333-2340=西暦1673~1680)以後賀茂郡に編入せられしが〈一説寛文以後とあるは誤りなる可し。伊志夫神社寛文12年(2332=西暦1672)の梁牌に那賀郡仁科荘雲見郷石部村とあり、又延宝六年の検地帳に賀茂郡岩地村とあるを以って証す可し〉明治に至り、17年組合戸長役場を岩科村に置き、同22年、町村制の実施せらるるに及び、岩科,道部,岩地,石部,雲見の5ヶ村を併合して岩科村と称す」
賀茂郡下においては、岩科は有数の大村であったとこから、道部・岩地・石部・雲見の4ヶ村を合併した折りに、岩科の名称のもとに、1つの自治区を構成したものであった。
岩科の地名については、『贈訂豆州志稿』によると、
「因ニ誌ス科ハ吾邦階級ノ義ニ用和ヰテシナト読ム岩ハ巌石嶮シキ場所ニ用ウ当村段々上リテ階級ヲ上ルガ如しシ故ニ名リ」
とあって、岩科川上流の岩石けわしき地にあったことをうかがわせる。
『南豆風土誌』では、
「蓋〈いわしな〉の名称は〈いわしろ〉(いわしろは斎柱にて之を尊みては国柱とも謂ふ)の転訛なる可しと云ふ。一説岩級の意にて岩石より成れる嶮坂の意味もあわせて述べている。
『南豆風土誌』に、
「峯より以下約一里に舟楫の便あり」
と記された峰は、岩科とその奥の八木山のほぼ中間あたりの集落で中村の人々が川の近くへ移り住んだところといわれている。水のほとり、水根の村というところから、のちに、
「みずね」
の読みがつまって、
「みね(峰)」
となって行ったものである。「峯」の字がいつのまにかあてられるようになった。
峰には、天王さんと山王さんがある。天王さんは牛頭天王をまつり、南北朝時代のものと伝える鏡がある。御神体は一尺ニ寸ほどの古神像を祀っている。また山王さんには、陰陽崇拝の名残りをとどめた性神がまつられてある。
最奥の八木山は、古く山を焼いて開拓したところから、
「焼山」
と、呼ばれていた。
ところが大変火災が多く、災害が絶えないところから、火を避けるという意味も兼ねて、木の字をあてて、
「八木山」
と、書くように改めたと伝えられている。
また、八木山には、平家落人里の伝説が語りつがれている。
熊野の豪族であるとともに、平家の武将のひとりとして知られた佐藤荘司は、源平合戦に敗れたあと、天城路を越えて、鎌倉時代以前に平家の支配下にあった仁科の荘園へと逃れた。寿永4年(1185)に、平家は壇ノ浦に滅亡するや、源氏方の平家残党狩りは厳しさを加えた。
全国に数多く配置されていた平家支配下の荘園に対する詮議は厳しさをまし、家人、家の子郎党、荘官、荘司、目代など、いずれも蜘蛛の子を散らすように、それぞれ人里離れた山の奥へと逃げ込んだのである。
岩科川の奥へとのがれた佐藤荘司一行は、谷のわずかに開けた現在の八木山を開拓して、隠れ住むようになった。
その折に山を焼いて開いたところから「焼山」といわれたのが、今日の「八木山」の地名を生むもとになったと伝えているのだ。
佐藤荘司の一行は、熊野を逃れる時に、一巻の系図と熊野権現の分霊をたずさえて、八木山まで逃れたので、その分霊を、ようやく安住の地とした八木山に祀った。
八木山の荘司山には、古く佐藤荘司の碑があったといわれ、山名も佐藤荘司にちなんで付けられたものと伝えている。碑のあった跡には、現在こわれた台石が残るのみだ。
八木山から2kmほど登ったところには、昔から霊場として知られた高野山がある。
〈真言密教の修行の地〉
といわれていて、昔の山岳仏教の名残りを思わせるところである
ここは伝承によると、平安時代の初めの頃、弘法大使が諸国巡錫のみぎりに、真言宗の大本山をここに開こうとしたが、近くに肥料の匂いがするところから断念して、紀伊国に本山を開いたといわれている。それが紀州の高野山であって、
〈高野山〉
の名称は伊豆の八木山にも残されたと伝えている。
この高野山の中腹には、大きな岩窟があり、江戸時代に入って、僧泰念が行をして開き、その後行者の参籠は、つい近年にまで及んでいたという。
堂宇は数十年ほど前に焼失していまはないが、行者が残して行った経、のぼり、白衣などは、以前八木山にいて、今は堂ヶ島に博物館を持つ田口良氏方に残されている。

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