依田勉三

公開日 2018年12月18日

北海道・十勝原野開拓の先駆者

依田勉三(乞食)

依田勉三(蓑笠)

明治16年、帯広開拓出発にあたり、

乞食姿にふん装し決意を示した。

みの笠姿の勉三

大正5年途別水田造成の頃

 

生い立ち

嘉永6年(1853年)5月15日、伊豆国那賀郡大沢村の旧家「依田家」の3男として生まれた。幼名は久良之助(くらのすけ)。父は第10代善右衛門、母は文。勉三はその3男で、兄弟は11人おり、長男は佐二平。

幼少の頃、漢学者の叔父土屋宗三郎(三余)が開いていた三余塾で学ぶ。

幕末の伊豆は二宮尊徳の影響が色濃く、農本思想と開拓精神は既に幼少時代から勉三に植えつけられたものらしい。

11歳で母、13歳で父を失い、長男の佐二平に養育される。

明治3年(1870年)、17歳の時に、東京西久保にあるスコットランド人のキリスト教伝教導師、ワッデル博士の塾で、英語を学ぶ。ここで、後に開拓の同志となる鈴木銃太郎、渡辺勝と知り合う。

明治5年(1872年)に郷里に戻り、謹申学舎にて戊申戦争当時の会津藩の軍頭家老であった西郷頼母(さいごうたのも)から学ぶ。

明治7年(1874年)、21歳の時に、勉三は再び上京し、同年8月に慶応義塾に入り福沢諭吉の教えを受ける。この頃、北海道開拓史が招いた米国人:ケプロン報告書を見て北海道開拓に目覚める。

明治9年(1876年)1月に胃病と脚気のため、中退し帰郷する。

帰郷後は、兄の佐二平が創設した豆陽学校(現在の静岡県立下田高校)の教師となった。

明治12年(1879年)4月に従妹のリクと結婚。


晩成社設立

未知の北海道への憧れ止み難く、明治14年(1881年)7月、ついに単身現地へ渡り、人跡未踏の十勝原野の踏査に取りかかった。
明治15年(1882年)1月、晩成社を組織する。いとこの依田善六が初代社長で、勉三はその副社長となった。社名はもちろん〝大器晩成〟にちなんだもので、たとえ長い年月がかかろうとも、かならず成功させるぞ-と兄弟の意気込みがうかがわれる。
明治15年(1882年)5月、東京で知り合った旧上田藩士族、鈴木銃太郎を連れて再び北海道に渡った勉三は、十勝開拓の決意を固め、当時札幌県に属することになった現地で、土地貸し下げの申請を行った。

困難を極めた十勝開拓

明治16年1月15日、晩成社開拓団27名の出発前夜、依田家では勉三・リク夫妻を囲み、一族による壮行会が催された。
この席上、送る兄と送られる弟が盃とともに交わした漢詩がある。

欲報邦恩決北遊
辛酸常楽我家流
此行元是雖可賀
離恨猶存落日頃
(佐二平)

◎邦恩に報いんと欲し北遊を決す/辛酸常に楽しむ我家の流/此行もとこれ賀すべしと雖も/離恨なお存す落日の頃

内容)国恩に報いようと考えて北海道開拓の旅に出発することになった。然しながら開拓の事業は並々ならぬ苦労が伴うであろうが、わが依田家ではあらゆる苦労を楽しんで乗り越えてゆくのが家風である。弟よ、しっかり行ってこい。だが此の壮行は勿論大いに祝うべき事ではあるが、いよいよ別れとなり夕日が西に傾き沈んで行くのを見ると、何となく弟と別れるのが悲しくなってくる。



 

遺却鴻恩又北遊
弟兄相対涙空流
男児報国何日知
為事人間在黒頭
(勉 三)

◎鴻恩を遺却して北遊せんとす/弟兄相対して涙空しく流る/男児国に報いんとす何れの日たるを知らんや/事をなさんとす人間黒頭に在り

(内容)父母兄弟の深い肉親の恩愛をたち切って今私は北海道開拓の旅に出ようと考えている。今送別の宴を開いて兄さんと向かい合って酒をくみかわしていると、自然に涙が流れてどうしようもない。つらつら思うに此の志を遂げて国恩に報いる事の出来る日はいったい何日の事であろうか。しかし世情如何なる大事業でも、すべてこれを成し遂げるは人間の力によるものである。自分も此の若さを持ってしっかりやってくるぞ。



こうして妻リクのほか小作人の妻たち女性9人を含め、一行をひき連れて十勝川上流(現在の帯広市)に辿りついた勉三は、早速困難な開墾作業と取り組んだが、最初の年はやっと3町歩の畑ができただけ。
続いて干ばつ、長雨、虫害と思わぬ災害に見舞われ、食糧にもこと欠く状況だった。
挙句の果てには「故郷へ帰りたい」と脱落者も出る始末。

それでも勉三は穀物,甜菜,イグサ,リンゴの栽培を試みたり,製綿,澱粉,缶詰め工場を作ったり,植林をしたり,あらゆることに挑戦した。
移住4年目には牛馬を買い入れて牧場を開き、後年は水稲を試作し、水路を設け150町歩の造田にも乗り出した。

だが必死の努力も虚しく、事業としては軌道に乗るものがないままに、勉三は大正11年(1922年)中風で倒れ、同14年12月12日歿した。72才だった。

そして10数万円の赤字をかかえた晩成社も、創業50年を迎える昭和7年(1932年)解散に追い込まれてしまった。帯広に市制がしかれる前年のことである。

しかし十勝開拓40余年にわたる勉三翁の苦労は、決して無駄ではなかったどころか、今日の十勝平野の繁栄と帯広市の発展振りを見る時、その不屈の精神、先見性には称賛を惜しむ者がない。

死後

生前、緑綬褒賞をはじめとする数々の栄誉に輝いた勉三翁の銅像が、昭和16年(1941年)帯広神社前の中島公園に建てられたが、戦時中に金属応召によって供された。昭和26年(1951年)7月に再建。

昭和29年(1954年)、北海道開拓神社に間宮林蔵、松浦武四郎、伊能忠敬らとともに合祀される。


松崎町では兄の佐二平、叔父の土屋三余とともに〝三聖〟と称され、その偉業を称えられている。

エピソード

開拓初期は生活が極端に苦しく、客人が豚の餌と勘違いするほどの粗末な食事であった。幹事の渡辺勝が「おちぶれた極度か豚とひとつ鍋」(豚と同じ鍋の食事をする)と惨めな食事を嘆いたとき、勉三は毅然として「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだといわれる。

映画化

今からおよそ100年前、北海道十勝野の地に新天地を求めて、想像を絶する開拓の戦いに挑んだ男がいた。その男の名は、依田勉三。しかし勉三ら開拓団の前に立ち塞がる北の荒野は、あまりにも厳しかった。

小説「依田勉三の生涯」(松山善三著)を原作とするこの物語は、依田勉三率いる「晩成社」一行30余名の壮絶な挑戦を描いた勇気と感動のスペクタクル巨編であり、また自分の夢を信じ純粋に生きた若者たち熱き青春グラフィティでもある。

平成14年(2002年)の開基120年を記念して勉三の生涯をつづる映画「新しい風ー若き日の依田勉三ー」が製作され、第38回ヒューストン国際映画祭でグランプリに輝いた。

〇配役 

依田勉三:北村一輝  依田リク:富田靖子  渡辺勝:風間トオル  渡辺カネ:岩崎ひろみ  鈴木銃太郎:曽根英樹  依田佐二平:古谷一行

新しい風

関連事項

〇北海道帯広市との姉妹都市交流

北海道の十勝開拓の祖と言われる依田勉三が松崎町の出身であったことを縁に、昭和53年5月に開拓姉妹都市提携が結ばれました。

現在では、毎年夏休みに小学生の姉妹都市訪問が行われているほか、帯広市から季節の便りとして、6月上旬に「すずらん」、10月頃に「じゃがいも」をいただいており、町内の幼稚園や学校、福祉施設に配布しています。また、松崎町からは、5月頃に「甘夏みかん」、1月頃に「ぽんかん」を送っています。

帯広市は、北海道・十勝地方の中心都市であり、農業を基幹産業とした十勝の農産物集積地となっています。また、食料品加工や地元の資源を活かした製造業も盛んです。明治時代に農耕馬を競争させたことから生まれたばんえい競馬は、唯一帯広市で開催しています。

〇六花亭 マルセイバターサンド

マルセイバターサンドは、北海道帯広市に本工場を構える六花亭製菓株式会社が販売している、北海道銘菓として人気が高いお菓子です。

マルセイとは◯の中に成の字を入れたもので、依田勉三(松崎町出身)の興した晩成社(依田牧場)が1905年(明治38年)に北海道で初めて商品化したバターのことです(当時の表記はマルセイバタ)。

マルセイバターサンドの包装は 発売当時のマルセイバターのラベルを復刻・再デザインしているため、レトロな外観となっています。

〇帯広市の豚丼発祥のヒストリー

依田勉三が詠んだ句にこんな句があります。「開墾のはじめは豚と一つ鍋」。十勝開拓の祖と言われる依田勉三率いる晩成社が、豚4頭を連れて入植したのが帯広での養豚の始まりです。

大正末期には豚肉料理が一般的になりつつありましたが、庶民が食べられる豚肉料理は少なく、貴重なものでした。豚丼がはじめて登場したのは昭和8年。庶民にも食べられる料理ということで、うな丼をヒントに甘辛いタレを絡めて焼いた豚丼をつくりました。今では帯広の市民に愛された郷土料理として食べられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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お問い合わせ

松崎町役場 企画観光課
住所:〒410-3696 静岡県賀茂郡松崎町宮内301-1 本庁2F
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