石田礼助

公開日 2019年01月22日

三井物産の総帥から戦後は国鉄総裁に

 明治19年(1886年)2月20日、賀茂郡江奈村(現松崎町)の網元の家に生まれた。父の房吉は三餘塾の出身で、江奈村戸長や初代西豆漁業組合長を務め、地域の漁業振興に功績を残した人である。母イチは大沢依田家の一族。礼助はその二男であった。

松崎小学校に入学し、腕白でのびのびとした少年時代を過ごす。中学は東京に出て、麻布中学へ。同校の創立者が沼津出身の江原素六で、父房吉が江原と親しかった関係である。江原の家に1年半ほど下宿した。

学業成績は、開校以来といわれたほど優秀だったが、剣道にも打ち込んだ。東京高等商業学校(現一橋大学)に進み、明治40年に卒業して三井物産に入社、商社マンになった。その年の7月、大連支店に出され、9年間満州にいた。

大正5年(1916年)、30歳でシアトルの支店長に抜擢される。以後、ボンベイ、カルカッタ、大連、ニューヨーク各支店長を歴任、どこでも業績を伸ばして注目された。

昭和8年(1933年)、ニューヨーク支店長のまま同社取締役、昭和11年、常務取締役となって帰国。昭和14年には代表取締役となる。54歳のときである。三井物産のトップの座についたわけだが、礼助は、「実におもしろくないんだ。会議ばかりで、社長なんて実にくだらんよ」と浮かぬ顔をしていた。

彼は自由主義で、つねにズケズケとものを言い、政財界の大物に対しても遠慮することがなかった。

昭和16年10月16日、日米関係が悪化し、戦争になりそうな気配を感じた礼助は、ニューヨークで面識を得ていた高松宮から天皇に訴えてもらおうと、宮に面会を求め、2時間にわたって開戦阻止を陳情した。これが大問題となった。彼は即日辞表を書き、三井物産を去った。

昭和17年、産業設備営団の顧問となり、昭和18年に交易営団が設立されるとその総裁に推される。

戦後の昭和21年、任期満了で営団を辞した直後、公職追放令を受けた。戦時中の戦争協力責任を問われたのである。

10年間、神奈川県国府津町の自宅で農夫のような生活をしていた。彼の卓越した経営手腕を買い、経済界への復帰を求める声は多かったが、固辞し続けた。

昭和31年、同じ国府津の住人である十河信二国鉄総裁のたっての依頼で、国鉄監査委員長となり、昭和38年、経営再建の任務を帯びて国鉄総裁に就任する。このとき礼助は78歳だった。

6年間の在任中は、国鉄に民間企業の経営方式を取り入れ、合理化、規律厳正、事故防止に努め、東海道新幹線を開通させた。勲一等の叙勲を辞退したことでも有名。

昭和53年(1978年)7月27日没。享年92歳。鎌倉円覚寺に墓がある。

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