鈴木真一

公開日 2019年01月15日

明治の写真師 鈴木真一

鈴木真一

天保5年(1834年)7月、賀茂郡岩地村(現在の松崎町)に生まれた。本名は真。父高橋文左衛門(屋号文左)には13人の子があり、真はその末子である。高橋家は依田佐二平、勉三兄弟の母ぶんの実家で、真一は兄弟の叔父にあたる。

20歳のころ縁あって、下田の鈴木与七の娘と婚約した。鈴木家は、大阪屋の屋号で質屋と雑貨屋を手広く営む下田屈指の資産家であった。ところが、結婚式の前に安政東海地震が起こり、下田は津波による大被害を受け、鈴木家もすべての家財を失った。それでも真一は鈴木家の養子となり、同家を継いだ。

 下岡蓮杖との出会い

慶応2年(1866年)32歳のとき、彼は下田に帰ってきていた下岡蓮杖と知り合った。蓮杖は下田出身で、日本における写真術の開祖といわれ、横浜で活動していた写真獅である。話を聞き、実際の写真を見せてもらって、真一は写真に見せられるようになる。蓮杖に弟子入りを乞うて許された。

翌慶応3年、蓮杖が横浜で写真館を開業した。日本初の写真館だった。真一も一緒に横浜に出、蓮杖の助手として7年間写真術を学んだ。

明治5年(1872年)9月22日、たまたま伊豆へ帰郷していた真一は、江奈村に開設された私立学校「謹申学舎」の記念写真を撮影した。この写真は現存し、塾長の元会津藩士家老西郷頼母(43歳)、塾生依田勉三(20歳)らの姿も写っている。翌6年、師匠の許可を得て独立、同じ横浜で写真館を開いたが、まもなく店を閉じてアメリカに渡った。本場で写真の新しい技術を修得したかったからである。

 鈴木写真館の開業

明治12年に帰国、東京九段坂で「鈴木写真館」を開業した。スタジオはモダンな西洋風の建物だった。真一は、アメリカ帰りの写真師として一躍有名になる。皇室の御用を務め、明治天皇を撮影したこともあったという。郷里伊豆との関わりも多く、明治13年9月に岩科村の公立小学「岩科学校」の落成式を撮り、明治16年には依田勉三ら北海道開拓移民団「晩成社」一行26人の出発記念写真を撮影している。いずれも伊豆の歴史にとって貴重な記録である。

彼は印画紙に焼き付けた写真が変色するのを憂い、年月を経ても色あせない焼き付け技術をはやくから模索していた。様々な工夫と実験を重ねたが、一応の成功を治めたのは陶磁器に写真を焼き付ける方法だった。出来上がった作品を下水に投じ、16年後に取り出してみたところ元の通りだった。さらに硫酸、硝酸、塩酸に浸しても変色しないことを確かめ自信を得たという。

明治36年(1903年)、自らの骨壺を製作し、これに自分の肖像写真、自筆の履歴、工夫実験の経過等を焼き付けた。この骨壺は、松崎町岩地の生家高橋家に現存している。真一の後妻美遠(みを)は、元謹申学舎塾長西郷頼母の妹だった。大正7年(1918年)、享年84歳で死去。墓は生家の裏山にある。

 参考文献

  • 町制施行100周年記念誌 郷土の先覚者たち(平成13年2月 松崎町発行)

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