入江長八の苦悩と芸術

公開日 2016年02月04日

「人間というものは、潮の流れたゆとう流れ藻のように、時の流れのまにまに流されてゆくべきものだろうか。入江長八という男の半生は、まるで本人の意志などに頓着なく、人間の貴重さなどにお構いなく、無慈悲に冷酷に流されている。そこには、流離の掟というようなものがあって、1人の男の人生をどしどし動かしていっているように見える。人はそういう状態を〈運命〉と言って止むを得ないとあきらめる。長八もそう思い、しかし、何度かそこから脱け出そうと試み、結局運命に従わざるを得なかった。」
須田昌平著『?工伝(おこうでん)』(文寿堂印刷所発行)を開くと、奥伊豆の貧農の子として生まれた入江長八の「流れ藻」のような運命に翻弄された生き様が描かれる。
佐官職として、恋をして、江戸へ出て、苦悩の中から数々の作品を生み出して、世に残した、伊豆の長八、伊豆長の多彩な仕事の跡は、松崎の誇る最大の芸術でもある。
入江長八は文化12年(1815)旧暦8月5日に松崎町明地に生まれた。父は平助、母はてごといった。平助は父の代からの小作百姓で、名主の依田善六に使われていたという。平助は、家族6人を支えるため、百姓仕事の合間には、名主の家の雑役をしたり、村仕事の日雇いに出たりして、わずかな日銭を稼いでは、乏しい家計をやりくりしていた。
長八はそんな貧しい家に生まれた。
同じくこの年には、那賀の大屋に土屋宗三郎(三余)が生まれている。
三余は、後に幕末の漢学者として、三余塾を開き、子弟の教育にあたり、松崎の篤学者として広く全国にまで知られた人物である。
翌年の文化13年(1816)は、
〈諸国大旱畿内東海道大風水害〉
と記録された災害の年で、松崎も大きな被害を受けている。
その後も、明治時代に入るまで、松崎はしばしば大きな洪水に見舞われている。今日のごとく堤防の整備がしっかりしていなかった江戸時代では、大きな災害がかなりあったであろうことは想像にかたくない。
文政9年(1826)の春、長八は12歳で佐官仁助に弟子入りする。
仁助の下での修業は、後の長八の漆喰細工を生むべき基礎技術を、みっちり叩き込まれた。
文政13年(1830)は天保元年になるが、長八は、仁助一家に従って駿府へ仕事に出て、その繁栄ぶりに驚くとともに、駿府での生活のなかから彼は絵に対する関心を強めてくる。このことは、後年の彼の作品に大きな影響を及ぼすのだ。
「社寺や名所の美術に、商家の調度に、少くとも長八は〈美〉というものを意識し、美に憧れ始めた」(須田昌平著『?工伝』)
駿府の仕事を終えて松崎へ帰った長八は、天保4年(1833)の春に江戸へ出る。深川に落着いた長八は、仕事をみつけてまわるが、思うように行かず、長いことその日稼ぎの仕事で送っていたらしい。
天保5年(1834)に江戸は大火に見舞われた。長八にとってはこれが1つの転機になって、本業の佐官職に立ち戻ることを得たのである。江戸の大火は、建築関係者、職人たちを一斉に立ち上らせたのだ。
佐官の仕事で落着きが出てくれば、また勃然と忘れていた絵への関心が甦ってくる。当時江戸では谷文晁が高名な画家であった。文晁について絵を習いたいと思ったが、70歳を越えた文晁は弟子をとらない。しかたなく長八は文晁に紹介された川越に住む喜多武清を訪ね、待望の絵の勉強を始めた。
世は移り、時は流れる。
長八の生活の上にも、それから十数年、様々な変化が生じた。絵の勉強、失恋、ふるさととの訣別、女との生活、苦悩、すさんだ生活は、果てしもなく続くのであった。
そうした苦しみの果てに、結婚、棟梁としての独立、鏝と泥土との美の世界の開幕、鏝絵の創造への飽くことなき探求、と、長八の生活はようやく充実を加えてくる。
そして、時代は幕末の動乱をへて明治へと入っていく。江戸は東京と変わり、長八の身辺にも、義父の死、妻の死と激動がおそう。そんな中に彼は自己の芸術をひたすらに求めた。山岡鉄舟との出会い、竜沢寺百日の参籠など、求道の姿を、そこに見ることができる。長八は既に60歳を越えていた。この頃から長八は、作品を親しい人に贈ったり、死後のことを考えてであろうか、制作にいっそうの力を注いでいる。長八の晩年は淡々として、心のままに制作を楽しみ、秋風のごとく閑雅であったが、孤独な晩年のなかでまたもや、一筋の期待をかけた養子の兼吉に先だたれるという悲嘆のどん底に突き落とされる事態に見舞われた。すっかり気落ちした長八は、病床の人となる。気の衰えに寒さが加わって、激しい喘息におそわれた。それでも兼吉の一周忌を過ぎるころ、再び長八は元気を取り戻し制作にも力がこもり始める。この頃から数多くの名作が、各地に残されるようになった。晩年の山岡鉄舟との交友も深まって、思想的な面において、人生観において、様々に教えられることも多かったためであろう。
明治20年、長八はふるさとの松崎へ何年振りかで帰り、浄泉寺の「絵馬」を始め、依田孝家の「寒牡丹」、壬生家(現依田薫家)の「不動明王」などの作品を残した。
ふたたび東京へ帰った長八は、翌年、山岡鉄舟の死にあい、長八の心身にも衰えが目立ち始める。
明けて明治22年、長八75歳である。この年、南画風の屏風画の大作を描いたが既に精細を欠いていた。長八自身このことを自覚してか、春になって帰郷した長八は、養女おしゅんに死後のことを箇条書きにして懇々といいおいている。また大工の粂五郎の家の欄間に山水八景を描き残したりしている。これが松崎における長八最後の作品になった。
東京へ帰ったその年の夏頃から床につくようになり、秋の深まったある1日、
「紙、と、硯」
晩年の長八を世話していた甥にあたる菊池幸太郎と竹次郎は、大急ぎで仏壇の下から紙と硯箱を持ってきて、幸太郎が水をさすと、竹次郎はだまって墨をすった。
仰臥したままの長八は、渡された紙と筆を持って、しばらく眼を瞑っていたが、
「わが秋や月一夜も見のこず」
やおら書き終わって、筆ごと幸太郎に渡すとふたたび眠りに落ちて行った。
静かな寝顔であった。
明け方近く、長八の息は静かに絶えた。

松崎町では、昭和48年に、公共施設に残されている長八の作品10点を文化財としてして、保存に力を入れている。

1、弁財天漆喰坐像(春城院蔵)
2、毘沙門天漆喰像(春城院蔵)
3、黒天漆喰像(春城院蔵)
4、達磨太子漆喰像(春城院蔵)
5、大現大士漆喰像(春城院蔵)
6、宝州禅鼎漆喰座像(春城院蔵)
7、十六善神画像(春城院蔵)
8、浄感寺本堂天井雲龍墨画(浄感寺蔵)
9、浄感寺本堂欄間の飛天漆喰彫刻(浄感寺蔵)
10、応神天皇、神功皇后、武内宿弥漆喰人形(伊那下神社蔵)

以上のほかに松崎町内に保存されている長八の作品は、37点が数えられている。旧岩科学校校舎、長八記念館などに展示、保管されてあるほかに、個人の家に保存されている作品も多い。
 

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