産金の夢におどる慶長年間

公開日 2016年02月04日

小田原城の開城によって、関東は北条氏から徳川氏へと領主は移って行く。
秀吉は、韮山城開城の功績を高く評価し、それに力を尽くした徳川家康に、関東を預けることになる。
天正から文禄年間中にかけて、豊臣秀吉は天下に令して、田畑を検地している。徳川家康は、代官伊奈熊蔵忠次、彦坂小刑部元成らに命じて、まず豆州を検地している。
世に天正の名直し、または文禄の検地といわれているもので、その折の検地帳は、今なお諸村に残されているものが多い。
文禄3年(1594)7月には伏倉村、門野村に検地が行われ、下って慶長3年(1598)の、いわゆる慶長検地には、
「豆州西浦郡雲見村」
の名称がみえている。
太閤殿下豊臣秀吉はこの年、63歳で没している。
慶長5年(1600)に行われた関ヶ原合戦は、世にいう、
「天下分け目の合戦」
で、徳川家康は、文字通り天下を手中にすることになった。
下田領主戸田尊次は、関ヶ原の合戦の功によって、5,000石を加増され、三河国田原へ移封。その後は、伊豆半島は、賀茂郡三島代官の支配のもとに置かれることになる。
戦国時代にかぎらず、支配者層は、多額の資金を必要とする。戦時であるなら、それはとくに強く要望される。
徳川家康も軍資金に乏しいことを、常に憂い、金山の開発には意を用いていた。
伊豆には、
「伊豆金は天正5年(1577)丁丑の頃より、西浦土肥村にて初めて金抗を開掘す」
と、『増訂豆州志稿』に記されているように、金山の開発は少し前から進められていた。
〈伊豆半島からは金、銀がかなり産出されるはず〉
家康はこのことに着目していたに違いない。家康の関東支配以後、下田領主戸田氏を田原に移封してのちは、三島に代官をおいて、直接の支配とし、大久保石見守長安(1545~1613)を伊豆金山奉行として当らせ、慶長11年(1606)から探金させている。
大久保長安は、はじめ武田信玄に仕えていた猿楽師大蔵藤十郎といったが、甲州にあった頃、武田家の甲州金開発などを身近にみて過ごしていたことに加えて、
〈天性財利に通じていた〉
と、古書にある資質などから、武田家滅亡後、家康近習の大久保忠隣を通じて、徳川家に仕えるようになってから、その手腕が急速に発揮されることになったものであろう。
慶長6年(1601)8月に、石見銀山奉行となって、まず石見の銀抗において、採銀技術を十分に修めた。ついで慶長9年(1604)(慶長8年の説もある)佐渡奉行を命ぜられ、石見守の称を受けている。
伊豆金山奉行となったのは慶長11年(1606)で、61歳の時であった。
伊豆の金山は、天正、文禄、慶長年間にさかんに採掘されたもので、土肥では、始め天正5年(1577)に金山が発見され、柿木間歩(坑道)と呼ばれて、徳川時代々官彦坂元成の手によって採鉱されていた。現在土肥町にある龕附天正金礦がそれである。
彦坂元成は贓罪ありとして、慶長11年(1606)に改易、大久保長安が伊豆金山奉行として入ることになる。
長安が奉行として着任したあと土肥金山は飛躍的な発展をとげる。甲州から抗夫を呼び寄せ、柿木間歩(坑道)よりさらに大規模な金抗を開発し、黄金御用船を仕立てて、松崎、下田に寄港し、江戸へ運んだと伝えている。
土肥の金山が栄えると共に、伊豆へは諸国から人が集まった。坑夫をはじめ、職人、商人など、
〈雲霞の如く〉
集まった。縄地(現在の河津町)には遊女を置くことを許されたが、船の寄港地などの関係から、下田に多く集まっていたといわれる。
松崎はどうかというと、はっきりした記録には残されていないが、古老の語るところによれば、
「港の常として、公にはどうか知らないが、宿屋には、そういった女も随分いたらしいということを〝としより〟から聞いたことがある」
という。
大久保長安は、下田代官も兼ねていたので、下田に対する治政もかなり力を入れていたことが、
「水関を設けて従来の船舶を検す。下田是に於て盛なり」
と、『南豆風土誌』に記されていることなどからうかがわれる。
長安の私生活は、大変豪奢をきわめていたという。24人の側妾を蓄えていたという説もある。彼の死後、贓罪著しかったことが判明し、遣子ことごとく死罪になったと伝えている。
しかしながら長安の悪名は、必要以上に誇張され、世間を誤解に落とし入れているという説も強い。
むしろ最近技術に長じた長安の存在そのものが徳川家康にとっては、
〈そろそろ抹殺しなければ〉
ならない時期にさしかかっていたのではなかろうか。
長安の死を待つようにして、一族尽くを死罪に追いやったのは、長安の技術がその子へ受け継がれ、それはやがては徳川の家に、
〈危険な存在〉
となっていく懸念を覚え、それがため大久保一族をいち早く根絶したとも考えられる。長安は家康の政治の犠牲にされたという説もうなずける。
そうした後の世の評価はともかくとして、長安が伊豆金山奉行として在任中に、各地の神社にさまざまな寄進を行っていることは注目に価いする。
松崎では、慶長13年(1608)に、伊那上神社に釣灯籠を寄進し、また翌14年(1609)には伊那下神社に同じく釣灯籠を寄進している。
伊那下神社の式三番叟を調査した松崎町の文化財専門委員会でまとめた『松崎町文化財増刊号』のなかに、大久保石見守について、次のように紹介している。
長文なのでそれを要約してみると、
-大久保長安は、天文11年(1549)甲州の猿楽師金春七郎の子に生まれ、大正10年(1582)武田氏が滅亡して後は、駿府へ下って徳川家康に仕えた。大蔵太夫と称して猿楽(芸能・能楽)をもって、己が業としていた。
猿楽は古代から中世にかけて流行した演芸で、平安時代には神学の余興として宮廷に入り、民間では神社仏閣に隷属していた。滑稽な物真似を主としたもので、鎌倉時代には歌舞演劇の要素を加えて、猿楽の能に発達した。
能は、足利や徳川の将軍は武楽として、これを保護し将励し、出し物もその種類が多くなり、観世,宝生,金剛,喜多,今春などの各流派も生まれている。
大久保石見守の流派は金春(今春)流で、彼が後に奈良奉行として、春日神社に関係したことがあるが、この時長安は金春流の最高峰である奈良春日神社の舞手のしぐさをしばしば観賞して、それを見につけ、長安自身ますます猿楽の名手となったものであろう。
加えて彼は長身にして体格堂々とし、風采もまことに立派であった。その弁舌も爽やかで、頓知、機知にも富み、いわゆる口八丁手八丁であった。
時あたかも慶長5年(1600)石見国の石見銀山を毛利輝元の手から接収する軍使として遣わされ、手腕を発揮する。舞台は石見から佐渡、そして伊豆へと、金鉱脈をまたにかけて、一介の猿楽師は、鮮やかに黄金の舞台へと踊り出ることになる。
関ヶ原の合戦後、石見守長安は、家康へ建白書を提出する。
〈国郡山谷の内、金銀銅鉄を産する所をよく調べて駿府にこれを輸送すべし〉
家康は長安の建白書を見て大いに喜んだことはいうまでもない。
これによって家康の信任を得た長安は、旭日昇天の勢をもって、伊豆の金山の開発に努めた。土肥で発見された金山は、次いで修善寺、湯ヶ島から縄地へと及び、さらに青野にまでのびてくる。縄地の発展は特に急速で、遊女屋が軒を連ねるほどの大鉱山地になったという。坑夫は重労働のため毎日のように葬式が出た。寺が間に合わず、そのため寺の数まで増えたと伝えている。
慶長12年(1607)ころになると、さすが隆盛をきわめた金山にも衰えが見え始め、一頃は佐渡の金山を凌ぐ産出を誇った伊豆の金山も、減少の一途を辿り始めた。当然のように長安は焦燥にかられ、伊豆の鉱山の配置とその分布をさまざまに検討した。
〈まだまだ未発見の鉱脈は秘められているに違いない〉
地図を眺め、分布を検討して行くうちに、
〈金が出たことがあった〉
という情報もあった。
代官の名において、松崎あたりの調査が早速に行われた。
長安は、牛原山の麓の下宮に金山の再発見の祈願こめ、金の灯籠を寄進して松崎大明神とあがめ、金の産出を願って、得意の舞、「翁」を奉納した。下宮の氏子たちは、長安が以前は舞役者であったということは知らない。今をときめく権勢の人である。その奉行が、松崎大明神とあがめて、舞を奉納したことに驚異するとともに、彼を生神様のごとく敬ったことも頷かれる。
金の産出を願う長安は、これを神事として村人達の稽古を励ました。氏子達も石見守から伝授をされたことに誇りを感じ、日夜稽古に励み、ついに、氏子達によって三番叟が奉納されるまでになった。その後、松崎の伝統芸能として、今日まで伝えているものである-。
しかしながら、松崎における金の産出は期待通りには行かなかったようである。
伊豆の産金そのものも、採掘技術の発達により急速に下降し、ついに埋蔵の底も尽きかけてきたことがいえるのかもしれない。長安の栄華が絶頂を極めるころは、金の産出もがた落ちとなって、悪夢が長安の頭を悩ますようになっていった。

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