通称伊豆の長八≠ニいわれる漆喰芸術・鏝絵の名工。天祐、乾道と号した。 文化12年(1815)8月5日、当時の伊豆国松崎村明地(現在・松崎町)生まれ。 父は兵助、母はてご、長八はその貧農の長男だった。
器用で利口な子供
長八は幼い頃、菩提寺の浄感寺へよく遊びに行き、正観和尚(「本多正観」)と妻のたきゑから、大いに可愛がられたという。 たきゑは長八の家の本家にあたる旧家で、淵の大屋と呼ばれた入江家からこの寺へ嫁いだ人。 やがて浄感寺で開かれていた塾へも通うようになったが、その頃から長八は手先の器用なことで知られ、自分でもまた大きくなったら何かで腕をみがき、身を立てたいものだとかたい志を立てていたようだ。
そして12才の時、村の左官棟梁・関仁助に弟子入り、その家に住み込んで漆喰を練る仕事なども手伝うようになった。 あるとき兄弟子が土蔵の裏壁に、漆喰で半球形の折釘の座≠長時間かかって塗りつけているのを見た長八は、棟梁と兄弟子が仕事場を離れたすきをみはからって、古いお椀の中へ漆喰を詰め、信じられないほどの速さでみごとな折釘の座≠つくり、まもなく戻ってきた2人をびっくり仰天させた──というエピソードも残っている。
江戸へ出て日本画を修行
その漆喰細工に絵の技法を取り入れてみたいと、念願していた長八はついに意を決して19才のとき江戸へ出、川越在住の狩野派の絵師・喜多武清の弟子となって、3年間みっちりと修行した。
そして漆喰に漆を混ぜると、思い通りの鮮やかな色が出せることや、鏝絵という新分野の技法を工夫した結果、長八独特の芸術的ジャンルを開き、この頃から堰を切ったように数多くの名作を生み出した。
特に長八の名が江戸中に知れ渡ったのは、日本橋茅場町の不動堂が再建されたとき。 多くの職人の中から腕を見込まれて選ばれた長八は、表口御拝柱の左右に実にみごとな迫力のある1対の竜を描き、一躍名工≠ニうたわれるようになった。26才の時である。
名作と辞世の句を残して
それからの長八は、浅草観音堂、目黒祐天寺、成田不動尊など各地に名作を残し、ますます名声を博したものの、江戸で作られた作品は関東大震災によって大半が焼失。 現在、東京方面で残っているのは、足立区・橋戸稲荷、品川区・高輪の泉岳寺、東品川の寄木神社、千葉県・成田山新勝寺などに約45点。
郷里松崎では、昭和59年7月オープンした「伊豆の長八美術館」に約50点、浄感寺の「長八記念館」に約20点が展示公開されているほか、重文・岩科学校、春城院、三島市・龍沢寺にも作品が所蔵されている。 明治22年(1889)10月8日、深川・八名川町の自宅で歿。
辞世の句は、 「わが秋や月一夜も見のこさず」 74才だった。墓は松崎・浄感寺と、東京・浅草の正定寺にある。
入江長八の年譜
文化12年 (1815)8月5日 伊豆国松崎村明地に生まれる。 文政4年 (1821) 浄感寺塾に入る。 文政7年 (1824) 弟・巴之介歿、4歳。 文政9年 (1826) 左官の親方・関仁助に弟子入り。 文政11年 (1828) 妹・とめ歿、3歳 天保6年 (1835) 著名な画家喜多武清に絵を学ぶ。 天保9年 (1838) 父・兵助歿、60歳。 弘化3年 (1846)頃 浄感寺本堂の天井の竜、ふすまの竜、欄間の飛天などを作成。 弘化4年 (1847)頃 江戸・深川の妓楼播磨屋の養子となり、10代目金兵衛を名乗る。 嘉永5年 (1852) 姉・民歿。 嘉永6年 (1853) 母・てご歿。 安政3年 (1856) 白に鳥の図、成田山新勝寺に奉納される。 明治3年 (1870) 妻・たき歿。 明治13年 (1880) 岩科学校と岩科村役場に、千羽鶴、千里江山の図、清少納言の図などを製作。 明治22年 (1889)10月8日 深川八名川町の自宅で歿、74歳。
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